安土桃山から江戸時代までとは? わかりやすく解説

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安土桃山から江戸時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:24 UTC 版)

船橋市」の記事における「安土桃山から江戸時代まで」の解説

安土桃山時代 1578年天正6年) - 領主高城胤辰船橋大神宮門前町自治を許す。 1590年天正18年) - 北条氏滅亡に伴い徳川氏関東入府武田信吉領地となる。幕府によって、市域中部一帯小金牧設置される江戸時代 武田信吉佐倉藩転封後、栗原藩除き主要な街道筋天領・その他は旗本知行地として分割統治される。 1600年慶長5年) - 徳川氏家臣である成瀬氏関ヶ原の戦い戦功による加増大名に列せられ、栗原現在の本中山西船付近)に陣屋を置く(栗原藩)。 1614年慶長19年) - 東金での鷹狩目的御成街道整備される船橋御殿(現・船橋東照宮近辺)がつくられる1615年元和元年) - 徳川家康秀忠一行船橋御殿宿泊、献の功から船橋浦が御菜浦専用磯魚場)に指定される1638年寛永15年) - 藩主成瀬氏断絶によって、栗原藩改易される。 1674年から1678年延宝2年 - 延宝6年) - 小金牧一部開墾され神保新田前原新田滝台新田上山新田藤原新田・丸山新田行田新田の7ヵ新たに開村1703年元禄16年) - 元禄大地震によって、船橋浦の海底変化良好な環境失われ漁獲量大幅に減少。献から金納転換する御菜浦権威失墜し密猟者急増1874年明治7年)に永代廃止されるまで、争い熾烈となる。 1721年享保6年) - 船橋幕府砲台場(現:了源寺)で、大砲試射が行われる。 1722年享保7年) - 享保改革一環として丹羽正伯桐山太右衛門によって、下総小金薬園開設される(後の薬園台新田)。 1725年享保9年) - 第1回徳川将軍家小金原御鹿狩(ししかり)が行われる(徳川吉宗)。 1726年享保11年) - 第2回徳川将軍家小金原御鹿狩が行われる(徳川吉宗)。 1785年天明5年) - 西海神浜で塩田業が本格化する。 1795年寛政7年) - 第3回徳川将軍家小金原御鹿狩が行われる(徳川家斉)。 1817年文化14年) - 安川塾が開塾 1824年文政7年) - 船橋漁師猫実・東宇喜田漁師漁場乱闘となり、船橋漁師総代入牢され獄死する1849年嘉永2年) - 第4回徳川将軍家小金原御鹿狩が行われる(徳川家慶)。

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安土桃山から江戸時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 23:34 UTC 版)

千葉県の歴史」の記事における「安土桃山から江戸時代まで」の解説

徳川家康 佐倉城城址(現佐倉城址公園国立歴史民俗博物館の台とね川風天正3年 (1575年)、北条上総侵攻 天正18年1590年)、第31当主千葉重胤時に豊臣秀吉小田原征伐北条氏没落すると、千葉氏所領没収され戦国大名としての千葉家断絶してしまった。一方里見氏房総半島南部一帯勢力伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動私的な戦闘行為みなされ安房一国削減された。 北条氏滅亡後徳川家康駿河遠江三河甲斐信濃の5か国から下総上総を含む関八州移封されたことにより、房総大部分がその支配下に入る。上総下総には、常陸佐竹氏安房里見氏警戒して本多忠勝始めとする徳川家譜代家臣団が配置されるも、里見家存続し引き続き安房領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保忠隣失脚余波受けて改易その後断絶することになる。 江戸幕府開かれると、徳川家康鷹狩りなどのため船橋御茶屋東金などに御殿建造し御成街道整備された。江戸に近いことから、大きな大名家置かれず、小大名領旗本領・天領細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦老中としてアメリカとの交渉役を務めたまた、下総関宿藩著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主久世広周同じく老中務め公武合体政策などを推し進めた下総国には、他に小栗原藩高岡藩小見川藩多古藩生実藩が、上総国には鶴牧藩請西藩飯野藩一宮藩佐貫藩久留里藩大多喜藩が、安房国には勝山藩船形藩館山藩それぞれ置かれた。また、明治維新徳川家達静岡藩移封に伴い静岡藩編入され駿河遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。 江戸時代前期には、房総最大百姓一揆佐倉藩起こったが、この時に一揆指導あたった佐倉惣五郎は、重税苦し百姓救おうとした『伝説的義民』として、芝居歌舞伎の演目描かれ庶民尊敬集めた。しかし、小規模な領主多かったこの地域では例外除き、殆どの地域場合このような大きな一揆起きるのは稀で、多く場合税率平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった江戸時代通じて、県域各地は、幕政改革影響強く受け、印旛沼治水工事椿海干拓などの大規模な土木事業新田開発盛んに行われたまた、風土立地に恵められていたことから、薬草農産物などの栽培所が設置され試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉 対策のため、サツマイモ栽培関東広めるために、下総国馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総国九十九里浜不動堂村(現九十九里町)において試験栽培実施され享保20年1735年関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後サツマイモ関東一円広がるきっかけ作ったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参黄蓮栽培試みられている。 また、房総江戸近く軍馬養成適した平地多かったことから、旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧佐倉牧嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所江戸名所のひとつに数えられ松尾芭蕉小林一茶歌川広重などの作品紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代インド産の白牛を放牧繁殖、白牛酪バター)などが日本初め生産 された。 江戸時代中期になると江戸で人気馳せた歌舞伎役者市川團十郎成田不動帰依して成田屋」の屋号名乗り不動明王登場する芝居打ったことなどから成田参詣呼ばれる個人参詣運動盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道人々賑わい街道水運なども整備され宿場町間の宿形成された。 また利根川影響栄えた佐原は”北総小江戸”、”水郷の町”と呼ばれお江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われ商家町。伊能忠敬商人として活躍していた町であり、利根川水運拠点のひとつ。江戸との交流隆盛極め醸造業商業大きく発展下総国武蔵国との境界変化 近世初期天和3年1683年)、また一説によれば寛永年間頃(元和8年1622年) - 寛永20年1643年))、下総国葛飾郡一部、すなわち隅田川から利根川までの地域現在の墨田区江東区葛飾区江戸川区等) を武蔵国編入境界改め武蔵国葛飾郡とした。

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