安土桃山時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 11:10 UTC 版)
太郎生に相当する地域は中世の末期まで伊賀国名張郡に属し、伊勢神宮の神領であった。神宮領の四至を示した「伊賀国夏見郷刀禰解案」(『光明寺文書』)の承平4年12月19日(ユリウス暦:935年1月26日)の条に「太良牟」として登場し、伊勢神宮領の端であったことが分かる。『神鳳鈔』によれば、近隣の六箇山(むこやま)も含めて神宮領で、箕や藤づる、三節祭(神嘗祭と月次祭)のための柾目のヒノキ、苧麻布、紙を納める役目を担った。付近に東大寺領や興福寺領が迫っていたため、たびたび境界争いが発生していた。平安時代の末期には平頼盛の所領となり、平家の滅亡後も残存勢力が城郭を築き源氏方と激しい戦闘を繰り返し、元久元年5月(ユリウス暦:1204年5月 - 6月)に敗退した。また平維盛の子・平高清(平六代君)が落ち延びてきたという平家の落人伝説が残る。平家勢力がこの地を去った後、元の神宮領に復帰した。小字日神(ひかわ)には平六代君の墓とされる五輪塔を含む鎌倉時代末期から室町時代初期に作られた日神石仏群が残されている。 延元3年(1338年)に北畠顕能が伊勢国の国司に任じられ、北畠家が一志郡以南を所領として以降、北畠家の所領となった。天正2年(1574年)に織田信雄(北畠具豊)の、天正12年(1584年)に豊臣秀吉の所領となるが秀吉は直接統治せず、織田信包・富田信高が統治した。天正10年6月(ユリウス暦/グレゴリオ暦:1582年6月 - 7月)の北畠家の家臣帳に「一志郡多罷尾住大嶋今井助之進」(「罷」は「羅」の誤記)の文字があり、この頃には伊勢国一志郡に所属していたことが窺える。
※この「安土桃山時代まで」の解説は、「美杉町太郎生」の解説の一部です。
「安土桃山時代まで」を含む「美杉町太郎生」の記事については、「美杉町太郎生」の概要を参照ください。
安土桃山時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:36 UTC 版)
※この「安土桃山時代まで」の解説は、「安芸市」の解説の一部です。
「安土桃山時代まで」を含む「安芸市」の記事については、「安芸市」の概要を参照ください。
安土桃山時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 04:30 UTC 版)
安土桃山時代に豊臣秀吉が行った太閤検地によって、農地の所有者は領主や名主ではなく耕作する農家とされ(尤も小作人は耕作する農家に含まれ無い)、領主は年貢を在地領主は加地子を取る名分であった。
※この「安土桃山時代まで」の解説は、「寄生地主制」の解説の一部です。
「安土桃山時代まで」を含む「寄生地主制」の記事については、「寄生地主制」の概要を参照ください。
- 安土桃山時代までのページへのリンク