祀官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 17:48 UTC 版)
中世以来安土桃山時代まで小川氏が神主職を襲い、また別当寺院として金剛峯寺末寺の摩尼山大乗院が奉仕してきた。小川氏は当地一帯(小川郷)の領主と宇陀郡雨師荘の荘官を兼帯し(従って同荘に鎮座する式内丹生神社をも所管した)、在地領主として勢力を誇った(南北朝時代には北畠氏に属し、また長禄2年(1458年)の神璽奪還(長禄の変)に活躍した小川弘光が著名である)が、天正6年(1578年)に筒井順慶に屈してから衰退し、同15年(1587年)に断絶した。以後、江戸時代を通じて大乗院が専管したが、これも明治5年に廃された。
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祀官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 21:46 UTC 版)
かつては菅原・梶原の2家が奉仕してきたが、享保年間(1716-36年)に梶原家は断絶し、明治に至って菅原家も世襲を離れたという。また、小寺山西蔵寺という別当寺も存したが、これも明治5年に無住のため廃された。更に西方約600m離れた東明山景徳寺を奥の院としていたとの伝えもある。
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祀官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 16:46 UTC 版)
前述の通り、古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで、明治維新までは仁王護国寺を仁和寺が所管し、18の寺坊が神門に至る八丁坂参道の両脇に並んでいたが、明治の神仏分離で、第59世の観空法院を最後に廃され、寺坊も悉く棄却された。
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