平安から室町初期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 22:43 UTC 版)
「宝寿院 (祇園社の社家)」の記事における「平安から室町初期まで」の解説
明確に祇園社の長官である執行家が紀姓の一家系に属するようになったのは平安時代の紀行円の時代からである。行円は紀長谷雄(紀百継とも)の子孫であり、神道の祀官であると同時に延暦寺に属する天台僧であった。当時、祇園社は延暦寺の末寺となっており、その名目上の長官は別当・長吏であって、特に祇園別当は天台座主がその任に当たり、執行は別当・長吏に継ぐ地位であったが、次第に実務上の権限を有する執行家が祇園社の事実上の長官としての機能を果たすようになった。以後、行円の子孫の紀氏が明治に至るまで、祇園社の長官である執行職を代々世襲した。祇園社は神仏習合の神社であり、二十二社に列せられるなど朝廷からは明確に神社として見なされていたが、剃髪した僧侶によって奉祀されていた(このような神社に仕える僧を「社僧」と称した。)。紀氏の社僧家は行円以降、妻帯の社僧として血縁により世襲を行った。剃髪した僧侶でありながら妻帯し血族による世襲を行うことは仏教としては親鸞に先立つこととなるが、これは彼らが神官でもあり、祇園社が神社であることの気安さがあったとされる。また、当時藤原氏の勢力伸長により朝廷における地位を失い没落しつつあった紀氏の勢力存続のためであったという指摘がある。ただし、形式上は実子や血縁者を「弟子」として、「師子相続」すなわち師匠から弟子への相続との形態をとっていた。
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