平姓高山氏とは? わかりやすく解説

平姓高山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 17:01 UTC 版)

高山氏」の記事における「平姓高山氏」の解説

桓武平氏良文流の秩父氏一族秩父重綱三男である秩父三郎武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市高山にある高山不動名を残す)に住んで高山三郎名乗り初代高山三郎重遠となる。 後に重遠は上野国緑野郡高山群馬県藤岡市九里地区高山)を本拠とし、重遠の嫡男重久(重昭)が高山継ぎ、弟の重幸は緑野郡小林邑に移り小林氏の祖となる。この頃から重遠の一族高山党と呼ばれるうになる大治6年1131年緑野郡伊勢神宮高山御厨置かれる上野国群馬県多胡郡源義賢との結びつきをもったようで、高山重久の代に木曾義仲挙兵したとき、横田河原合戦参加している。(高山党の西七郎平家軍の富部三郎と戦う)その後源範頼軍に参加元暦元年1184年12月高山重遠、熊谷四郎佐々木盛綱従い備前国児島平行盛を破る。 鎌倉時代になり建保2年1213年)の和田氏の乱では北条方として参戦し、重昭の嫡男高山重治が鎌倉討死した。元弘3年1333年)、新田義貞挙兵すると高山時重はこれに加わり分倍河原の戦い戦死した。子の高山重栄その後新田軍として活躍したが、義貞が戦死する足利尊氏従ったその後足利氏従ったが、応安元年1368年)、武蔵平一揆の際には河越直重に加わる。乱は関東管領上杉憲顕によって鎮圧され以降関東管領上杉氏家臣として吾妻郡高山村本拠高山頼重上杉禅秀の乱永享の乱で、高山重秀・重友は結城合戦戦功重ねた高山盛重(因幡守)は文明18年1486年上杉顕定従い菅谷原の合戦埼玉県嵐山町)で上杉定正敗れ討ち死。その後の盛重の子孫は、新田金山城横瀬氏由良氏仕え高山繁勝の代で秋元6万石国家老として栄える。本家大高山呼ばれその分家の子孫に江戸期寛政三奇人一人として著名な高山彦九郎がいる。 主家の上杉氏天文15年1546年)、北条氏康河越夜戦敗れると次第没落し天文21年1552年)、上杉憲政越後長尾景虎上杉謙信)を頼って落ちて行く。永禄3年1560年)、上杉謙信の関東出兵の際には高山行重がこれに参加したが、武田氏後北条氏勢力強くなる高山氏上州諸将と共に武田信玄従った武田氏滅亡後織田信長配下滝川一益本能寺の変ののちは後北条氏属し小田原征伐後北条氏と共に没落した末裔江戸時代には高山衆と呼ばれた居館として高山社遺構がある。

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