平姓関氏とは? わかりやすく解説

平姓関氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:11 UTC 版)

関氏」の記事における「平姓関氏」の解説

伊勢国鈴鹿郡本拠とした豪族出自には諸説あり、常陸平氏大掾氏一族平兼忠5世の孫、関信兼出羽守をもって祖とする説[要出典]がある。実際『吾妻鏡』による伊勢平氏維衡の末裔とされる鎌倉時代得宗被官である関実忠伊勢国鈴鹿郡関谷賜り関氏称したのが初代伝わり[要出典]、実忠以降数代事跡明らかでない北条氏滅亡後元弘3年1333年)に実忠6世の孫盛政が関東から関谷移り住み関一党の基礎築いた。盛政には五人の子があり、長男・盛澄を神戸に(神戸氏の祖)、次男・盛門を国府(こう)城に、三男・盛繁に本家を継がせ亀山城に、四男・盛宗を鹿伏兎(かぶと)城に、五男・政実を峯城に、それぞれ配して勢力伸ばした延元2年1337年)、陸奥にあった北畠顕家義良親王奉じて西上したとき、これに従い伊勢では北朝方の有力豪族長野氏雲出川構えた高師泰の軍と戦ったという。 室町時代室町幕府支配帰服するが、伊勢国北畠満雅皇位継承における問題で、大覚寺統持明院統両統交互に皇位継承する取り決め北朝幕府反故にしているとの不満から挙兵すると、関氏北畠家求めにより幕府軍戦って降伏した戦国時代動乱期には、中・北地方にまで勢力伸ばしていた。しかし、織田信長次期将軍として足利義昭奉じて西上してくると、関一党は次々と信長降り離散した関盛信の子である一政豊臣家重臣蒲生氏郷麾下(きか)となり、豊臣秀吉九州征伐小田原征伐出陣するなど、家名存続のため豊臣家の命を受けて転戦した。やがて氏郷が会津転封になると、一政もそれに従って陸奥に赴き、白河5万石を与えられた。 関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍、のち東軍属し戦後旧領亀山城与えられた。その後伯耆黒坂5万石に移封されたが、家中内紛のため元和4年1618年改易された。養子・氏盛(弟・関盛吉の子)が近江国蒲生郡において5,000石を与えられ寄合列した

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