平姓福田氏とは? わかりやすく解説

平姓福田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 09:20 UTC 版)

福田氏」の記事における「平姓福田氏」の解説

平安時代末期治承4年1180年)、後白河法皇家臣平兼盛平包守)が九州肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて下向した。その子平包貞(兼貞)が文治2年1186年8月13日に生手荘の地頭任命されるも、平包貞には子が無く文治5年1189年)、家督は弟の平包信(兼信)が継いだ。平兼信は土着して、文応元年1260年11月6日付平兼俊譲状写に「譲与嫡男四郎所 早可領知福田手隈之事」とあるよう文応元年以前に生手・手福田郷(福田村)と名付け自身福田名字とし福田平次と称したのが、九州平姓福田氏の始まりである。 元寇にも現地在地勢力として福田兼重・兼光親子参加し、「福田重申状」等の福田文書呼ばれる中世肥前国を知る事のできる第一級一次資料を遺している。 それ以降南北朝騒乱にも参加後醍醐天皇福田村安堵されて南朝側として戦った。ただ、この頃でも福田地名中央認識されておらず、元弘3年1333年)の申状写によると改めて「福田村」の地名使い、その所領安堵求めている。 南北朝対立大村氏と同じ南朝方の雄であった菊池氏配下になった一族もおり、福田氏庶流九州全域広がっていくのである戦国時代には福田荘に残った嫡流一族勢力伸ばし福田兼次福田忠兼福田兼親続き領主としての地位確保する永禄8年1565年)にはポルトガル定期船来航し福田浦に入港した福田長崎湾の外側にあり、外洋面した小さな漁港であったが、初めポルトガル船を迎え活気呈し教会建設され各地からキリシタンらが集まってきた。大村純忠幾度かこの地を訪れてキリスト教神父達やポルトガル船の司令官とも会談している。 永禄8年1565年)に南蛮貿易権益巡って松浦氏襲撃を受けるが、忠兼はこれを撃退した天正元年1573年)、福田城築城天正14年1586年)に、福田忠兼息子福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎えこの頃までには完全に大村氏支配下入っている。 江戸時代になると忠兼の子福田兼親その子孫大村藩仕えている。子孫大村藩士福田長兵衛は、甲斐徳美藩主の伊丹勝守の娘を妻としている。(この頃までに大村氏直系絶え伊丹氏より養子迎えている縁があったと推測されるその後大村藩一門重臣として行動し幕末迎えたその末裔には陸軍大将福田雅太郎出ている。 庶流肥後菊池氏仕えて南朝側として数々の戦に参加している。しかし戦国時代となり当主菊池義武大友義鎮謀殺され菊池氏滅びた後は、在地領主として大友氏仕えた大友吉統改易後福田氏一族は元の所領である肥後戻り帰農している。

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