平姓福田氏
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平安時代末期の治承4年(1180年)、後白河法皇家臣の平兼盛(平包守)が九州の肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて下向した。その子の平包貞(兼貞)が文治2年(1186年)8月13日に生手荘の地頭に任命されるも、平包貞には子が無く、文治5年(1189年)、家督は弟の平包信(兼信)が継いだ。平兼信は土着して、文応元年(1260年)11月6日付平兼俊譲状写に「譲与八嫡男四郎所 早可領知福田手隈村之事」とあるように文応元年以前に生手・手隈村を福田郷(福田村)と名付け、自身も福田を名字とし福田平次と称したのが、九州平姓福田氏の始まりである。 元寇にも現地の在地勢力として福田兼重・兼光親子が参加し、「福田兼重申状」等の福田文書と呼ばれる中世肥前国を知る事のできる第一級一次資料を遺している。 それ以降の南北朝の騒乱にも参加。後醍醐天皇に福田村を安堵されて南朝側として戦った。ただ、この頃でも福田の地名は中央で認識されておらず、元弘3年(1333年)の申状写によると改めて「福田村」の地名を使い、その所領の安堵を求めている。 南北朝の対立で大村氏と同じ南朝方の雄であった菊池氏の配下になった一族もおり、福田氏の庶流は九州全域に広がっていくのである。 戦国時代には福田荘に残った嫡流の一族が勢力を伸ばし、福田兼次、福田忠兼、福田兼親と続き、領主としての地位を確保する。永禄8年(1565年)にはポルトガルの定期船が来航し福田浦に入港した。福田は長崎湾の外側にあり、外洋に面した小さな漁港であったが、初めてポルトガル船を迎え、活気を呈し教会も建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。大村純忠も幾度かこの地を訪れて、キリスト教の神父達やポルトガル船の司令官とも会談している。 永禄8年(1565年)に南蛮貿易の権益を巡って松浦氏の襲撃を受けるが、忠兼はこれを撃退した。天正元年(1573年)、福田城を築城。天正14年(1586年)に、福田忠兼は息子の福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。 江戸時代になると忠兼の子・福田兼親やその子孫は大村藩に仕えている。子孫の大村藩士福田長兵衛は、甲斐徳美藩主の伊丹勝守の娘を妻としている。(この頃までに大村氏直系は絶え、伊丹氏より養子を迎えている縁があったと推測される)その後大村藩で一門重臣として行動し、幕末を迎えた。その末裔には陸軍大将・福田雅太郎が出ている。 庶流は肥後菊池氏に仕えて、南朝側として数々の戦に参加している。しかし戦国時代となり当主の菊池義武が大友義鎮に謀殺され菊池氏が滅びた後は、在地領主として大友氏に仕えた。 大友吉統改易後、福田氏の一族は元の所領である肥後に戻り、帰農している。
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