鎮西平氏
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寛仁3年(1019年)頃の刀伊の入寇に際し藤原北家藤原隆家が率いた九州武士団および、東国から派遣された武士団に平致行(別名に宗行、あるいは致光)、伊佐為賢(平為賢、別名に為方、大掾為賢)、伊佐為忠(別名に為宗)らなどが居た。 伊佐為賢は多気維幹(大掾維幹、直系五世に多気義幹)の分家の子または庶子と伝わり(『新編常陸国誌』)、常陸平氏・大掾氏の一族である。為賢は肥前国司に任命され後述の藤津荘に入った。平致行(宗行)は大宰少弐をつとめていた。 為賢らは刀伊の入寇撃退の恩賞として高来郡を下賜され、伊佐の字をとって伊佐早(諫早)とした。伊佐早に入った一族は肥前船越氏を称した。 ほかに平安時代末期に院近臣の平兼盛(包守)の弟平包信(兼信)が肥前国福田荘に土着し平姓福田氏を称した。 このように反乱や外寇の鎮圧目的、任官もしくは配流のために鎮西に下向した平氏を鎮西平氏と称し一門は次の肥前伊佐氏、福田氏、河邊伊作氏(後述)などに広がった。
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