鎮西総追捕使とは? わかりやすく解説

鎮西総追捕使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:46 UTC 版)

源為朝」の記事における「鎮西総追捕使」の解説

為朝身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがり容貌魁偉、また強弓使い手で、前に出して弓を支え左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛兄たちにも傍若無人であった13歳の時、乱暴が過ぎて父の為義勘当され九州追放される尾張権守家遠が後見となって豊後国住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏原田氏など九州豪族たちと数十回の合戦城攻め繰り返し3年のうちに九州平らげてしまった。香椎宮神人為朝狼藉朝廷訴え出たため、久寿元年1154年)に出頭宣旨出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年1155年)に父が解官されてしまった。これを聞いて為朝帰参することにし、九州強者28騎を率いて上洛した。

※この「鎮西総追捕使」の解説は、「源為朝」の解説の一部です。
「鎮西総追捕使」を含む「源為朝」の記事については、「源為朝」の概要を参照ください。

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