福田兼親とは? わかりやすく解説

福田兼親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 15:47 UTC 版)

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福田 兼親
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:半兵衛、法名:宗半
墓所 長崎県長崎市手熊町 伝墓所「下のとん墓」
官位 大和守
主君 大村純忠喜前
大村藩家老職
氏族 桓武平氏福田氏
父母 父:福田忠兼
兄弟 兼親、式見兼重、兼房
正室:寂而院(大村純忠娘)
兼政
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福田 兼親(ふくだ かねちか、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。肥前国福田城主。肥前大村氏家臣。後に大村藩士。通称は半兵衛。法名宗半。父は福田忠兼。弟に福田兼重。子は福田兼則。妻は大村純忠の娘。なお、室町時代に活動した同名の先祖が居る[1]


生涯

福田忠兼の子として生まれる。天正14年(1586年)に父の計らいもあり、大村純忠の娘を妻とした[2]

文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では、肥前諸将と共に小西行長率いる第一軍の与力として参加した。後に大村喜前と共に帰国し、慶長3年(1598年)には大村氏に完全に臣従することなり、福田から玖島に与えられた屋敷に移住した。以降は重臣として活動した。この時弟の兼重に別家を起こさせている。

江戸時代になると、息子の兼政にも藩主一門である大村公種の娘を嫁がせた。没年不詳。

この後も福田氏は大村氏との血縁関係を深め、大村家中では同族として扱われた。大村氏直系が絶えた後も、新たな主君となった伊丹氏系大村藩主家との血縁関係を深め、明治維新を迎えている。

脚注

  1. ^ 『「福田兼親軍忠状 写し』永徳元年(1381年
  2. ^ この頃の福田氏は独立した国人領主として存在しており、大村氏とは同盟者の関係であった。

参考資料

関連項目





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