平姓仁科氏
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出自は諸説あり、いまだ確定されていない。平安時代末期の治承・寿永の乱前後から史書に登場するようになる。 歴史家・小山愛司による『信濃史源考』は、奈良時代に信濃国安曇郡に古代豪族阿倍氏または安曇氏が定住し、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を本拠としたことを起源とする、という説を紹介している。 『信府統記』は、承安の頃、奥州安倍貞任の末裔(まつえい)の「五郎丸」を名のる者が、仁科城代の荇野谷(かんのや)政治を討ち、仁科の城をのっとった(仁科氏を滅ぼしたわけではない)、という伝承を紹介している。五郎丸は悪逆不道であったため、鎌倉に訴え仲原義治を差し向けたが、これも討たれ、悪逆は増長した。その後、後鳥羽院に仕えた仁科城主の「山田治郎」(盛遠か?)の末子(もしくは末孫)で、源義仲に仕えた「山田次郎」によって誅され、五郎丸の首を鎌倉の頼経に謁した、という。 菩提寺の霊松寺の縁起では、永承7年(1052年)平清長が仁科郷領主となり仁科を姓としたという。 『岩城仁科系図』によると、平貞盛の後裔の平中方の子が、仁科盛遠(仁科次郎)を名乗ったことになっている。同系図には、盛遠とその子2人(盛勝(仁科太郎)と盛義(仁科三郎))の3名のみがみえる。一方『平家物語』は、源義仲の家臣に、寿永2年(1183年)の北陸での戦いに参戦している「仁科の次郎」をあげており、『源平盛衰記』によって「仁科次郎」とは「盛家」であることがわかる。盛家は治承3年(1179年)に安曇郡覚薗寺に千手観音を寄進した際に平朝臣と墨書している。さらに『源平盛衰記』には、「仁科太郎・守弘」もみえる。したがって、ここでの「仁科太郎・次郎」は、治承・寿永の乱時のものとは異なる。 『飯砂山仁科系図』では、鎌倉幕府滅亡後、平姓関盛長の子である盛忠が仁科城主源義隆の婿となり、文和2年(1353年)に仁科郷領主となったという関氏出身説を採っている。
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