平姓仁科氏とは? わかりやすく解説

平姓仁科氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:46 UTC 版)

仁科氏」の記事における「平姓仁科氏」の解説

出自諸説あり、いまだ確定されていない平安時代末期治承・寿永の乱前後から史書登場するうになる歴史家小山愛司による『信濃史源考』は、奈良時代信濃国安曇郡古代豪族阿倍氏または安曇氏定住し、その支族伊勢神宮御領仁科御厨」を本拠としたことを起源とする、という説を紹介している。 『信府統記』は、承安の頃、奥州安倍貞任末裔まつえい)の「五郎丸」を名のる者が、仁科城代の荇野谷かんのや政治討ち仁科の城をのっとった仁科氏滅ぼしたわけではない)、という伝承紹介している。五郎丸悪逆不道であったため、鎌倉訴え仲原義治差し向けたが、これも討たれ悪逆増長したその後後鳥羽院仕えた仁科城主の「山田治郎」(盛遠か?)の末子もしくは末孫)で、源義仲仕えた山田次郎」によって誅され、五郎丸の首を鎌倉頼経謁した、という。 菩提寺霊松寺縁起では、永承7年1052年)平清長仁科領主となり仁科を姓としたという。 『岩城仁科系図』によると、平貞盛後裔の平中方の子が、仁科盛遠仁科次郎)を名乗ったことになっている同系図には、盛遠とその子2人(盛勝(仁科太郎)と盛義(仁科三郎))の3名のみがみえる。一方『平家物語』は、源義仲家臣に、寿永2年1183年)の北陸での戦い参戦している「仁科次郎」をあげており、『源平盛衰記』によって「仁科次郎」とは「盛家」であることがわかる。盛家は治承3年1179年)に安曇郡覚薗寺に千手観音寄進した際に平朝臣墨書している。さらに『源平盛衰記』には、「仁科太郎・守弘」もみえる。したがって、ここでの「仁科太郎・次郎」は、治承・寿永の乱時のものとは異なる。 『飯砂仁科系図』では、鎌倉幕府滅亡後平姓関盛長の子である盛忠が仁科城主源義隆の婿となり、文和2年1353年)に仁科領主となったという関氏出身説を採っている。

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