平姓白岩氏
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白岩氏は新庄藩戸沢家で安永年間に編纂された『戸沢藩系図書』における家臣団の内訳で、戸沢氏のかつての盟主・盟友であった国人領主の末裔として楢岡氏、小野寺氏(山内氏)、本堂氏と共に御客分之衆と称されている。 居城は白岩城(現在の秋田県仙北市角館町白岩)。 白岩城は菅江真澄の『月の出羽路仙北郡』によれば、前九年の役の折に宮藤氏が拠点としたのが始まりという。後の鎌倉時代に平姓を称した下田氏の領するところとなったとする。下田(白岩)氏の家伝では代々秋田城介に任ぜられ、後三年の役で下田重康が戦功を挙げたとされる。その後、年代は定かではないが下田盛国が白岩城に居住したという。 南北朝時代以降に仙北郡に勢力を伸ばした戸沢氏と抗争したが、下田盛忠が戸沢氏と和し、戸沢久盛の室は盛忠の娘であった(戸沢寿盛の母)。以後は戸沢氏の宿老格の盟友となっていく。 享禄2年(1529年)には戸沢氏の内紛で、まだ幼い戸沢道盛から叔父の戸沢忠盛が家督を奪取しようとしたが、外戚の楢岡氏、六郷氏、本堂氏らの国人衆と下田氏も結束して圧力をかけ、天文元年(1532年)に忠盛が淀川城に退去することで決着させている。天文10年(1541年)からの小野寺氏の仙北攻略では、楢岡、六郷、本堂氏らと戸沢氏を救援している。 天正年間には天正14年(1586年)の阿気野の合戦で小野寺義道と、天正15年(1587年)には唐松野の合戦で安東愛季を小野寺・戸沢連合で、それぞれ戸沢盛安の配下として参戦した。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により戸沢三十五城と呼ばれた城砦が廃城となり、その一つとして白岩城も破却された。天正19年(1591年)に白岩(下田)盛正が大坂に上ったが現地で死去したという。 白岩盛家は慶長7年(1602年)の戸沢氏の常州松岡藩への転封に家臣として付き従い、元和8年(1622年)の新庄への転封以降も重臣として続いた。
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