平姓津田氏とは? わかりやすく解説

平姓津田氏(織田氏系)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:01 UTC 版)

津田氏」の記事における「平姓津田氏(織田氏系)」の解説

織田氏」も参照 近世大名織田氏出自平氏とする説においては平家の子孫が近江津田庄(現在の近江八幡市)に逃れ津田姓を称しその末裔がのちに越前移住し織田氏となったとされるが、確証全くない。この津田氏織田氏同族ではなく藤原氏忌部氏系統が有力とされている。また藤掛氏も津田氏一族である。 織田氏直系から見て庶流に当たる一門津田氏名乗り主家との厳格な区別付けていた。例えば、織田信長の弟織田信勝信行の子津田信澄などである。また、同じく信長一族近年言われていた津田信成大名列したものの、江戸時代前期改易されており、津田氏とは関係が無い。 江戸時代にも、丹波柏原藩織田家庶子出羽天童藩織田家庶子などに津田姓を称し藩士列した人物確認できる例えば、大和松山藩織田高長の五男津田頼房などである。今現在愛知県多数見受けられる津田家は、上記津田氏とは関連性無く多く小作人津田姓を名乗ったものに過ぎない。 ・鳥取藩家老津田氏織田一族名乗っている。初代元綱で、その子・元房は池田忠雄に従って8,000石を与えられた。3代元匡池田光仲移封に伴い鳥取移り伯耆国八橋郡所領与えられた。元禄5年1692年)、5代・元長の時に家老職就いた伯耆国八橋自分手政治明治維新まで続いた菩提寺八橋陣屋そばの体玄寺、現在も津田家墓所存在する。 ・改易された織田信重の子孫が細川氏従い豊前小倉藩および肥後熊本藩藩士となる。慶長から寛永年間作成されたとする「妙解院殿利公御代豊前小倉 御侍帳並軽輩末々共に」の物奉行に「津田三十郎」、側小姓に「津田左兵衛」の名が見える他、熊本県立図書館所蔵慶安元年1648年)の『真源院様御代御侍免撫帳』に「1千石 津田三十郎」、「4百石 津田右衛門」、「3百石 津田平丞」とある。幕末の『肥後細川家分限帳』では5家の津田家確認できるこのうち津田平助1000石)家の津田平士西南戦争熊本隊に従軍する。また津田信弘(山三郎、400石)は実学党にくみし、奉行参政)となる。 ・織田信長八男織田信吉の子孫は関ケ原西軍与して改易された後は代々水戸藩仕えた織田氏菩提寺である大徳寺総見院信吉墓石には「水戸津田家先祖」と刻字なされている。 ・加賀藩前田氏仕えた津田正勝中川重政弟)を祖とし、加賀藩持組として奉行職家老職務めた津田玄蕃家も、織田氏出身であるとされているが、斯波氏であるともされる

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