平姓鹿島氏
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鹿島氏は平高望・国香親子の末裔である大掾氏の一族である。通字は「幹」(もと)。平国香の六世孫である鹿島成幹が常陸国鹿島郡の領主となり、鹿島氏を称したのが始まりである。成幹は河内源氏の棟梁であった源義忠を姉または妹の舅である源義光の命を受けて暗殺するが、その義光の息のかかった義光の弟、快誉に殺害された。その死後、六人の息子に遺領は分割され、三男とされる鹿島三郎政幹が惣領となった。 治承・寿永の乱(源平合戦)において、平家の知行国であった常陸国の在庁官人を輩出していた常陸平氏は親平家の立場であったとみられ、鹿島政幹も多気義幹や下妻広幹、行方景幹らとともに当初は平家方であったとみられている。だが、政幹は早い段階で源頼朝方に転じ、養和元年3月12日(1181年4月27日)に源頼朝は鹿島政幹を鹿島社惣追捕使に任じた(『吾妻鏡』)。鹿島社惣追捕使は鹿島社惣大行事とも称され、鹿島神宮の神領の検断を任されるとともに、頼朝が篤く信仰していた鹿島神宮の振興の一翼を担うことになった。また、政幹の息子である宗幹・弘幹兄弟は他の板東平氏と共に家来を率いて頼朝軍に参加して、屋島の戦いで戦死したとされる。 その結果、鹿島氏は鎌倉御家人として認められ、鹿島政幹は弟の六郎頼幹(林氏始祖)と共に、源頼朝上洛、御所昇殿の砌に他の御家人と共に付き従うなど、鎌倉幕府の諸行事に参加するなどした(『吾妻鏡』)。頼朝の後継者は頼朝ほど鹿島神宮を信仰しなかったので、鹿島一族は次第に幕府中枢からの距離ができたが、それは幕府の内紛に巻き込まれることなく、三浦氏などの御家人のように粛清されることもないという側面も生んだ。その後、鹿島氏は梶山氏、立原氏など庶子を近隣に配して勢力を拡大した。
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