平姓鹿島氏とは? わかりやすく解説

平姓鹿島氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:47 UTC 版)

鹿島氏」の記事における「平姓鹿島氏」の解説

鹿島氏平高望・国香親子末裔である大掾氏一族である。通字は「幹」(もと)。平国香の六世孫である鹿島成幹が常陸国鹿島郡領主となり、鹿島氏称したのが始まりである。成幹は河内源氏棟梁であった源義忠を姉または妹の舅である源義光の命を受けて暗殺するが、その義光の息のかかった義光の弟、快誉殺害された。その死後六人息子遺領分割され三男とされる鹿島三郎政幹が惣領となった治承・寿永の乱源平合戦)において、平家知行国であった常陸国在庁官人輩出していた常陸平氏は親平家立場であったとみられ、鹿島政幹多気義幹下妻広幹、行方景幹らとともに当初平家であったとみられている。だが、政幹は早い段階源頼朝方に転じ養和元年3月12日1181年4月27日)に源頼朝鹿島政幹鹿島社惣追捕使任じた『吾妻鏡』)。鹿島社惣追捕使鹿島社大行事とも称され鹿島神宮神領検断任されるとともに頼朝篤く信仰していた鹿島神宮振興一翼を担うことになったまた、政幹の息子である宗幹・弘幹兄弟は他の板東平氏と共に家来率いて頼朝軍に参加して屋島の戦い戦死したとされるその結果鹿島氏鎌倉御家人として認められ鹿島政幹は弟の六郎頼幹(林氏始祖と共に源頼朝上洛御所昇殿の砌に他の御家人と共に付き従うなど、鎌倉幕府諸行事に参加するなどした(『吾妻鏡』)。頼朝後継者頼朝ほど鹿島神宮信仰しなかったので、鹿島一族次第幕府中枢からの距離ができたが、それは幕府内紛巻き込まれることなく三浦氏などの御家人のように粛清されることもないという側面生んだその後鹿島氏梶山氏立原氏など庶子近隣配して勢力拡大した

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