時宗執事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:44 UTC 版)
頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた。弘長元年(1261年)の頃に父盛時から侍所所司を継承し、文永9年(1272年)以前には得宗家の執事となっている。 生年は明確に分かってはいないが、次男資宗が文永4年(1267年)の生まれであることから、仁治元年(1240年)頃に生まれたのではないかとされる。その場合、泰盛と時宗の中間の世代に相当し、建長8年(1256年=康元に改元)まで執権であった北条時頼の偏諱(「頼」の字)を受けて元服したものと判断される。『吾妻鏡』では建長8年1月4日条の「平新左衛門三郎」を初見として4回登場する。 文永8年(1271年)9月、元寇に際して御家人に鎮西下向の命が下される中、頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていた日蓮の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状では、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。日蓮は斬首に処される所を直前で回避されているが、これは時宗の妻(堀内殿)の懐妊と、その養父である安達泰盛の進言があった事によるものとの見方もある。建治元年頃には父盛時が没しており、その跡を受けて建治3年(1277年)には時宗が幕府の重要事項を決める寄合衆の一員となっている。
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