時宗の執権就任時期に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/18 02:04 UTC 版)
「北条時宗」の記事における「時宗の執権就任時期に関する異説」の解説
通説では、第6代執権である北条長時が文永元年(1264年)8月に出家した後、長老の北条政村が第7代執権に、時宗が連署に就任し、4年後の文永5年3月に政村から執権を譲られたことになっている。これに対して、石井清文は以下の理由から、長時死去の際に時宗が直ちに執権に就任したとする説を出している。 石井の主張は、 「連署」の職名の由来は"下知状や御教書に執権と並んで連署した"ところに由来する、実際に長時存命中は武蔵守長時(執権)・相模守政村(連署)の順で署判されている。 長時没後の最初の下知状とされているものに、文永元年10月10日付「宮城右衛門尉広成後家尼代子息景広与那須肥前二郎左衛門尉資長相論条々」(『鎌倉遺文』9166号)の暑判は「左馬権頭平朝臣」「相模守平朝臣」と記されている。『鎌倉遺文』では左馬権頭=政村、相模守=時宗と注釈するが、政村は左馬権頭を務めたことはなく(右頭権頭の在任はある)、左馬権頭を務めた経験があるのは時宗であり、政村が左京権大夫に転じて、その後任の相模守に時宗が就任するのは翌文永2年3月なので、それ以前に出された同文書の注釈に誤りがあり、左馬権頭=時宗、相模守=政村としなければならない。なお、『鎌倉遺文』に収められた文永元年8月以降文永2年3月以前の下知状・御教書は全てが左馬権頭を最初の署判者としている。 文永2年3月以降の下知状・御教書は官職の変動を反映して、相模守=時宗、左京権大夫=政村の順で署判が行われ、この状態が文永5年3月以降も継続されている。 政村が執権に就任していたとすると、その執権在任中だけ執権と連署の署判の順番が入れ替わっていることになるが、その事情が説明できない。 文永元年・5年の『吾妻鏡』の記事は存在せず、執権人事の異動に関する通説は『関東評定伝』や『鎌倉年代記』などを出典としているが、いずれも後世編纂史料であり、当時に出された文書を否定する根拠にはならない。 として、長時の次の執権は当時14歳の時宗で、政村は連署としてこれを補佐していたと述べている。石井は時宗がまだ若く経験不足であったが、前年の時頼の死去に続いて長時まで死去すると言う状況で、幕府内の反主流派が時宗の競合相手である異母兄・時輔を担ぐ事態を阻止するために時宗を執権として擁立し、連署の政村と新たに越訴奉行に任ぜられた北条実時と安達泰盛がこれを支える体制を構築しようとしたとする。ただし、文永5年3月に文書などの形では表に現れない政治的な異変が起きた可能性については今後の検討課題になるともしている。
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