厨川工藤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:40 UTC 版)
工藤行光の死後、長子・中務太郎長光は建久年間に下向して厨川(くりやがわ)に居住したとあり、厨川館を定め岩手郡を統治して「岩手殿」と呼ばれた。また行光の弟・三郎資光も岩手郡に住み、その子孫が糠部郡に分住したとあり、南北朝時代以降南部氏に従って三戸郡坂牛村に住し坂牛氏の祖となった。(『奥南落穂集』) 南北朝の争乱の際に北朝方につき、三戸南部氏に討たれて地頭職を停止され、近郊10か村を領知するに至り厨川氏を称した。、厨川(栗谷川)氏は南北朝期以後も有力氏族との婚姻を重ね、最終的には南部家の家臣に組み込まれていった。 安土桃山時代まで領していた北上川西岸の厨川城(栗谷川古城)が居館であったが、天正20年(1592年)「諸城破却令」に廃城された。
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