厨川落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)
清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。その首は丸太に鉄釘で打ち付けられ晒された。経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首とされた。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。 清原氏参戦後、わずか1ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、清衡の助命と引き替えの早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある。
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