清原氏参戦とは? わかりやすく解説

清原氏参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)

前九年の役」の記事における「清原氏参戦」の解説

頼義が自軍勢力回復を待つ間、康平2年1059年)ごろには安倍氏衣川の南に勢力伸ばし朝廷赤札徴税ではなく経清の白札税金徴するほどでありその勢い衰えなかった。とくに、国衙の兵は鬼切部、黄海二度敗戦補充思うに任せなかった。そのため、頼義は関東東海畿内武士働きかけ行い麾下兵力の増強努めた康平5年1062年)春、任期切れた頼義の後任陸奥守として高階経重着任したが、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかったため、経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられた。 苦戦強いられていた頼義は中立保っていた出羽国仙北秋田県)の俘囚豪族清原氏族長清原光頼に「奇珍の贈物」を続け参戦依頼したとも、朝廷命令に参陣することを強く要請したともいわれるいずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則総大将として軍勢派遣した。 この時の頼義・清原氏連合軍陣立て以下の通り第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率い総大将軍。 第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿(現男鹿市)(山本郡島、現大仙市強首との説もある)の豪族万太郎貞頼率いる軍。 第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍。 第四陣、貞頼の弟新方次郎頼貞率いる軍。 第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍。 第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。 第七陣、雄勝郡貝沢(現羽後町)の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。 朝廷側の兵力はおよそ10,000人と推定され、うち源頼義率いる軍は3,000人ほどであった

※この「清原氏参戦」の解説は、「前九年の役」の解説の一部です。
「清原氏参戦」を含む「前九年の役」の記事については、「前九年の役」の概要を参照ください。

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