清原氏の参戦とは? わかりやすく解説

清原氏の参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)

源頼義」の記事における「清原氏の参戦」の解説

康平5年1062年)、頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた朝廷新任陸奥守として高階経重任命して任地下向させたが、陸奥国内の郡司官人達は経重の指示従わず前国守である頼義の指図従ったため、陸奥守としての勤務が困難と判断した経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷三度頼義を陸奥守任命し併せて奥州騒乱鎮圧を頼義に賭け事となった。 頼義は出羽勢力を張る清原氏兵力に目をつけ、清原氏当主である清原光頼対し参戦強く要請したはじめのうち参戦渋っていた光頼であったが、頼義が朝廷の命を依頼したことや「奇珍な贈物」を贈り続けた事から参戦決意し7月に弟の清原武則総領代理として1万の兵を率いさせて頼義の元へ出仕させた。これにより国府兵力併せておよそ1万3000の兵を擁した官軍大規模な軍事作戦を行う事が可能となり、8月16日栗原郡営岡にて以下の7陣に分けた軍団編成した第一大将武則の子清原武貞 第二大将武則の甥・貞頼 第三大将武則の甥にして娘婿吉彦秀武 第四大将、貞頼の弟・頼貞 第五大将清原武則 第六大将、秀武の弟・吉美候武忠 第七大将清原一族清原武道 このうち頼義は将軍として第5陣に属して全軍統率した。

※この「清原氏の参戦」の解説は、「源頼義」の解説の一部です。
「清原氏の参戦」を含む「源頼義」の記事については、「源頼義」の概要を参照ください。

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