清原氏の参戦
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康平5年(1062年)、頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた。朝廷は新任の陸奥守として高階経重を任命して任地へ下向させたが、陸奥国内の郡司や官人達は経重の指示に従わず前国守である頼義の指図に従ったため、陸奥守としての勤務が困難と判断した経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷は三度頼義を陸奥守に任命し、併せて奥州の騒乱の鎮圧を頼義に賭ける事となった。 頼義は出羽に勢力を張る清原氏の兵力に目をつけ、清原氏の当主である清原光頼に対し参戦を強く要請した。はじめのうちは参戦に渋っていた光頼であったが、頼義が朝廷の命を楯に依頼したことや「奇珍な贈物」を贈り続けた事から参戦を決意し、7月に弟の清原武則を総領代理として1万の兵を率いさせて頼義の元へ出仕させた。これにより国府の兵力と併せておよそ1万3000の兵を擁した官軍は大規模な軍事作戦を行う事が可能となり、8月16日に栗原郡営岡にて以下の7陣に分けた軍団を編成した。 第一陣大将、武則の子・清原武貞 第二陣大将、武則の甥・橘貞頼 第三陣大将、武則の甥にして娘婿・吉彦秀武 第四陣大将、貞頼の弟・橘頼貞 第五陣大将、清原武則 第六陣大将、秀武の弟・吉美候武忠 第七陣大将、清原一族・清原武道 このうち頼義は将軍として第5陣に属して全軍を統率した。
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