兵力の増強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。硫黄島には混成第2旅団5,000名が配備されていたが、サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700人が到着した。海軍でも、第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した。 次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった。 320mm臼砲(九八式臼砲) - 12門 400mmロケット砲(四式四〇糎噴進砲)・200mmロケット砲(四式二〇糎噴進砲I型)) - 70門 150mm迫撃砲(九六式中迫撃砲ないし九七式中迫撃砲)・81mm軽迫撃砲(九七式曲射歩兵砲) - 65門 75mm野砲(機動九〇式野砲) - 8門 47mm対戦車砲(一式機動四十七粍砲)・37mm対戦車砲(九四式三十七粍砲)- 69門 75mm以上の高射砲(八八式七糎野戦高射砲・四〇口径八九式十二糎七高角砲等) - 94門 20mm高射機関砲(九八式高射機関砲)・25mm高射機関砲(九六式二十五粍機銃) - 200門以上 80mm以上の海岸砲 - 33門、等 中でも日本陸軍の新兵器・ロケット砲(噴進砲)である、四式二〇糎噴進砲(弾体重量83.7 kg・最大射程2,500m)、四式四〇糎噴進砲(弾体重量509.6 kg・最大射程4,000m)および、緒戦の南方作戦(シンガポールの戦い等)から実戦投入され、大威力を発揮していたスピガット・モーター(差込型迫撃砲)である九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、航空爆弾に相当する大威力をもつと同時に発射台が簡易構造なことから、迅速に放列布置が可能で、発射後はすぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた(また、この噴進砲・臼砲は独特かつ大きな飛翔音を発するため友軍および敵軍に対する心理的効果も備えていた)。 これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する砲兵火力(師団砲兵)の4倍に達しており、特筆する点として重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲等)や加農(九二式十糎加農・八九式十五糎加農等)といった長射程の重砲ではなく、輸送や操砲が容易で面積が狭い硫黄島での運用に適し、隠匿性に優れる迫撃砲・ロケット砲が集中運用されていることが挙げられる。これらの火砲は海空からの支援や補給が絶望的な日本軍守備隊の貴重な大火力であり、また比較的小口径の対戦車砲や野砲も地形を生かした放列布置により多数の戦車・装甲車を撃破するなど、実戦で特に活躍することとなる。しかし海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行った結果、火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。 硫黄島にて鹵獲された九八式臼砲。 四式四十糎噴進砲。 機動九〇式野砲。 一式機動四十七粍砲。 さらに、北満駐屯の後に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山へ移動していた戦車第26連隊が、硫黄島へ配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「コビア」の雷撃によって撃沈された。この時の連隊の戦死者は2名だけだったが、戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともに全て海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。硫黄島に前後するサイパン島、ルソン島、占守島等の戦いと異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であった。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。 アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団は陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかし、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については、海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している。
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