兵力不足と第一次ワルシャワ包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:26 UTC 版)
「コシチュシュコの蜂起」の記事における「兵力不足と第一次ワルシャワ包囲」の解説
5月7日、コシチュシュコはポワニェツ宣言を発し、ポーランドにおける部分的な農奴解放を行い、全農民に自由権を与えた:190。彼の新法は各地の貴族の抵抗を受け、完全に施行されることはなかったが、それでも農民たちを革命戦争への参加に駆り立てるには十分だった。この時、それまでは国王選挙権のあるシュラフタ以上の貴族を指していた「国民」の範囲が、ポーランドで初めて農民まで包括した概念へ広がった。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}こうした極端な新兵編成や改革の約束によって数が増えたとはいえ、いまだポーランド軍の兵力はわずか6000人の農民兵と騎兵、9000人の兵士に過ぎず、敵と比べて致命的に少数であることは否めなかった:194。コシチュシュコの動きを危険視したプロイセンはポーランド・プロイセン同盟を破り、5月10日にフランシス・ファフラト率いる1万7500人のプロイセン軍が越境し、北ポーランドにいた9000人のロシア軍に合流した:194。6月6日、コシチュシュコはシュチェコチニの戦いでロシア・プロイセン連合軍に敗れ、8日にはヘウムの戦いでユゼフ・ザヨンチェク将軍がロシア軍に敗れた。ポーランド軍はワルシャワに撤退し、コシチュシュコの指揮の元で街の防備を固め、1万6000人の兵士、1万8000人の農民、1マン50000人の市民が立て籠もった:197。6月15日、プロイセン軍がクラクフを抵抗を受けず占領した:195。7月13日、イヴァン・フェルセン率いる4万1000人のロシア軍とフリードリヒ・ヴィルヘルム2世率いる2万5000人のプロイセン軍がワルシャワを包囲した:197。8月20日、コシチュシュコの呼びかけに応じてユゼフ・ニェモイェフスキらがヴィエルコポルスカ(大ポーランド)で蜂起した。これに対応するためプロイセン軍がワルシャワを離れ、9月6日までにロシア軍も撤退し、ポーランド軍はこの第一次ワルシャワ包囲戦を耐え抜くことに成功した:200。 コシチュシュコとは別行動をとっていたリトアニアの反乱軍は8月12月にロシア軍がヴィリニュスを制圧したことで鎮圧されたが、ヴィエルコポルスカの反乱軍の方は一定の成功を収めた。ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ率いるポーランド軍は10月2日にブィドゴシュチュを占領し、抵抗を受けずにポメラニアに侵攻した。機動力に優れるドンブロフスキ軍はプロイセン軍との正面衝突を避けつつ、プロイセン軍の大部分を中央ポーランドから撤退させてヴィエルコポルスカに惹きつけることに成功した。しかし彼も長期間プロイセン領ポーランドに留まることはできず、中央ポーランドへ撤退してコシチュシュコの本軍と合流した。
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