兵力の集中と兵站
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
本会戦の帰趨には、兵站問題の格差も大きく影響している。ソ連はノモンハンの戦いに中央が積極的な支持をしており、事件期間中は、優先して兵力と物資の補給を受けることができた。一方で日本軍は、大本営と関東軍の不和の影響として、関東軍が手持ちの兵力と、資材の範囲内で戦うことに拘ったため、元々の国力差以上の兵站問題の格差が生じてしまった。 当時、大規模な陸軍兵力の兵站は鉄道と船舶輸送を前提とし、鉄道駅と港湾を離れての大兵力の運用は困難とされていたが、戦場が鉄道・港湾と遠く隔たった本会戦の補給はトラック輸送によるしかなかった。関東軍はノモンハンに自動車第1連隊の600台のトラックを投入したが、その後、南満州鉄道からの支援を受け2,000台まで増車し、日量1,500トンの輸送能力を確保した。日本軍のトラックはハイラル区から第23師団の司令部のあった将軍廟まで往復2日間で走破した。 ソ連側は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしか鉄道輸送はできず、そこから、さらに前線まで700 kmに渡る悪路を往復6日かけてトラック輸送する必要があった。したがって、条件面ではむしろ日本より不利であり、関東軍は日本が補給戦で有利と考えていた。ソ連の状況も決して楽ではなく、計画通りの輸送量を確保するためには、最低6,000台のトラックが必要であったが、中央の全面的な支援を受けてかき集めたのが3,325輌と計画の60%に止まった。車輌不足を補うため、大規模なトラック輸送体制を整備した。過酷な道中で経験の浅い運転手でも迷わないように、ボルジャからノモンハンの間に6箇所の中継基地が設けられた。中継基地では燃料と食事が支給され、運転手は休息することができた。それでも補給路の過酷さゆえに補給日量は日本を少し上回る1,950トンであった。 ソ連軍は、1939年8月の大攻勢準備として5.5万トンの物資が必要であったが、責任者のソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンは「はかりしれぬほど困難な仕事だった」としつつも、道中、無灯火で不眠不休で走らせる強行軍で、必要な物資を前線になんとか送り切った。あまりにも過酷な任務であったため、トラック隊の苦情や現地の催促などの不平不満が日本側にも傍受されたほどであった。 十分な物資を補給されたソ連軍は、8月攻勢で日本軍第23師団に壊滅的打撃を与えた。ソ連軍司令官のジューコフは回想録で、軍事作戦には兵站と後方整備が決定的な要素であること、充分な資材の裏付けがなければ、軍事作戦は成功しないという用兵思想を当時既に確立していたことを述べている。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ジューコフはまず作戦資材の準備を最優先課題に設定した。輸送部隊はのちに戦功章を与えられ、その実績を顕彰された。 本来であれば、幹線道路を利用でき、補給基地から前線までの距離が近かった日本軍が圧倒的優位に立てるはずであったが、ソ連の輸送能力を過少に評価し、日本軍自身も相応の輸送能力を持ちながら、日中戦争を戦う中で、対ソ戦線に兵力や物資を集中することを躊躇し、逐次投入の愚を犯したことも、敗因の一つとなった。停戦後に纏められた『ノモンハン事件研究報告』では、ソ連軍の機動力を「ソ連軍の機械化は、鉄道端末より700粁を隔つる広漠不毛の地に於いて、大兵団の連続2箇月に亙る攻防会戦を遂行せしめ…以て我が企画遂行を妨害せり」と分析している。
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