アメリカ軍のウェーク島占領前後の動き
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「ウェーク島の戦い」の記事における「アメリカ軍のウェーク島占領前後の動き」の解説
ウェーク島の戦い前後、アメリカ海軍の動きとしては、ウェーク島への戦闘機輸送の帰途にあったエンタープライズ、およびミッドウェー島への戦闘機輸送に任じていたレキシントン (USS Lexington, CV-2) がそれぞれハワイ西方洋上とミッドウェー島南東洋上にあり、サラトガ (USS Saratoga, CV-3) がウェーク島への戦闘機輸送の第二陣として真珠湾に向かっていた。サラトガにフランク・J・フレッチャー中将が座乗して第14任務部隊を編成、ウェーク島救援にあたることとなった。 これに呼応し、エンタープライズ基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)は遊軍として哨戒と支援を行い、レキシントン基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)は牽制攻撃のためジャルート環礁目指して12月14日出撃した。第11任務部隊は、日本軍のブタリタリ、マキン島占領に伴いマキン島奇襲に矛先を変え、さらに太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将の命令により第14任務部隊の支援に回ることになった。 パイ中将はウェーク島の取り扱いの方針について海軍作戦部長ハロルド・スターク大将と合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将に伺いを立てたところ、ウェーク島守備隊の士気を考慮したものの、「兵力の増強より撤退すべきだ」と指示された。こうして、ウェーク島救援の動きは一気に終息に向かった。ウェーク島救援の本隊である第14任務部隊はもともと寄せ集め部隊で練度も十分でなく、12月23日の時点でウェーク島の北東約683キロ地点に達していたが、占領の報と相前後して引き返していった。 1942年に入ると、アメリカ軍は手持ちの空母を活用し、南方作戦の牽制を狙ってウェーク島、マーシャル諸島への奇襲作戦に打って出た。第11任務部隊はウェーク島へ、第8任務部隊と新配備のヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 基幹の第17任務部隊(フレッチャー中将)はサモアへの輸送任務終了後にマーシャル諸島へそれぞれ向かったが、第11任務部隊は1月23日に出撃した直後、随伴の給油艦ナチェス (USS Neches, AO–5) が伊72に撃沈され、燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された。 2月14日、マーシャル奇襲から戻ったエンタープライズは引き続きハルゼー中将に率いられ、レイモンド・スプルーアンス少将率いる重巡洋艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) 、ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) 、駆逐艦6隻と組んで第16任務部隊を編成し、真珠湾からウェーク島空襲に向かった。2月24日早朝、第16任務部隊は、まずノーザンプトンとソルトレイクシティ、駆逐艦2隻がウェーク島の陸上施設に対して艦砲射撃を行い、次いで艦載機がウェーク島の陸上施設に対して爆撃と機銃掃射を行ったが、いずれも味方捕虜がいると思われた兵舎は目標から外された。第16任務部隊は3月4日に南鳥島を奇襲して、何ら反撃を受けることもなく真珠湾に帰投した。
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