アメリカ軍の1813年の作戦
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「ジョージ砦の戦い」の記事における「アメリカ軍の1813年の作戦」の解説
アメリカ軍は1813年2月10日に新しい作戦を立てた。この作戦はサケッツ港から4,000名の兵士を伴い、キングストン、さらにはヨークを攻撃するというものだった。これが成功すれば後はジョージ砦を攻撃するだけだった。これと同時にバッファローから3,000名の部隊がエリー砦を奪取し、ジョージ砦に行軍することとしていた。この作戦は、カナダ戦線のアメリカ方面軍指揮官ヘンリー・ディアボーン少将が、嘘の報告によってキングストンには6,000ないし8,000名のイギリス兵が居ると思い込んだために、キングストンを避けるように変更された。 4月27日、ディアボーンとアイザック・チョウンシー海軍代将が指揮するオンタリオ湖のアメリカ軍はヨークの戦いに勝利し、数日間ヨークの町を占領し、多くの大砲や物資を捕獲した。ただし、ゼブロン・パイク准将など多くの兵士が火薬庫の爆発で戦死した。続いてアメリカ軍はチョウンシーの艦船で湖を渡り、ナイアガラ砦へ向かった。ディアボーンの次の攻撃標的はジョージ砦だったが、その部隊は休息と再編成を必要としていた。ナイアガラ砦ではこの部隊を収容する準備ができておらず、数日間は物資や食料がかなり不足していた。特に負傷兵は雨除けや看護も無しに放っておかれた。 5月15日、ウィンフィールド・スコット大佐がディアボーンの副参謀(すなわち参謀長)に指名された。スコットは前年のクィーンストン・ハイツの戦いで捕虜になり、その後捕虜交換で釈放されていた。イギリスは、スコットが捕虜交換でも仮釈放の身に過ぎないと主張し、この指名を受けたときに抗議した。スコットは部隊の管理を改善し、次の攻撃への作戦を立案した。これと同時にアメリカ海軍のオリバー・ハザード・ペリー海軍大尉がその戦隊のための水兵と物資を要求するためにエリー湖から到着し、一時的にチョウンシーの上級士官として従軍することになった。ペリーはナイアガラ川河口の上陸点を偵察し、位置関係を測って標識となるブイを置いた。 ジョージ砦に対しては、ナイアガラ川岸ではなく、オンタリオ湖岸で上陸する作戦を立てた。陸軍が上陸する時は、1つ以上の重砲を搭載し、岸近くまで行くことのできる12隻のスクーナーに支援されることになった。コルベットのUSSマディソンとブリッグのUSSオナイダの大型艦2隻は、最も近いイギリス軍砲台と交戦することとされた。 アメリカ軍の総勢は約4,000名の正規軍歩兵だった。この部隊を4波に分け、次々と上陸させることにした。第一波はスコット自身が指揮し、第二波は職業軍人のジョン・パーカーボイド准将、第三波は最近従軍したばかりの弁護士ウィリアム・H・ワインダー准将が指揮することになった。政治的な指名で任官したジョン・チャンドラー准将が予備隊を指揮し、アレクサンダー・マコーム大佐の砲兵隊の大部分と共に控えることになった。部隊の副司令官であるモーガン・ルイス少将が事実上上陸部隊の指揮官になった。総司令官のディアボーンは、マディソンの艦上から監察することになった。 アメリカ軍の準備が進行する中で、5月25日に川の対岸とナイアガラ砦、およびチョウンシー戦隊のスクーナーからジョージ砦に対する砲撃が始まった。砦と近くの砲台の砲手は、赤熱するまで炉内で加熱した砲弾を使い、素早く弾填めし、発砲した。ジョージ砦内の木製建屋が数棟が焼け落ち、砦の中にいた女性・子供は稜堡の中の避難場所に避けることを強いられた。
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