呉攻略の準備とは? わかりやすく解説

呉攻略の準備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:08 UTC 版)

呉の滅亡 (三国)」の記事における「呉攻略の準備」の解説

司馬炎はこうした孫晧態度見て南征のための将軍選抜軍隊出動準備行った268年孫晧北伐交州奪還両面作戦出たが、晋はいずれ撃退した269年司馬炎羊祜都督荊州諸軍事に任命して襄陽駐屯させ、衛瓘都督青州諸軍事に任命して臨淄駐屯させ、叔父司馬伷都督揚州諸軍事に任命して下邳駐屯させた。羊祜は兵を訓練し食糧蓄え、さらに呉の民心をつかむことにも成功した。しかし270年涼州禿髪樹機能らによる非漢民族大規模な反乱起こり、しばらく対処追われることになる。 271年、晋の支配下にあった交州は、虞汜薛珝陶璜らによって呉に再制圧された。272年、呉の西陵督である歩闡孫晧武昌への召還命じられた。歩闡危害加えられることを恐れ、晋に降伏した。しかし歩闡は呉の陸抗陸遜次男)によって攻め滅ぼされ、晋は歩闡救援失敗した西陵の戦い)。同年王濬益州刺史任命し大型船建造水軍訓練密命下し、呉攻略の準備を図った王濬造船した大船は、全長120歩・収容人数2000人、四面大門配し、馬が駆けることも可能で、さながらの上の城のようなものであったという。こうした大船大量に造り、晋は強大な水軍作り上げた。しかし賈充筆頭にした慎重論根強く開戦先送りされた。278年羊祜は呉攻略遺言し没した杜預後継就任し来るべき戦の準備進めていった。また279年には馬隆禿髪樹機能討ち取り、非漢民族反乱も一応収束させた。 一方、呉の皇帝孫晧は、晋の戦備対しまったく警戒しておらず、長江天険頼りにするばかりで防備増強せず、何回も晋に軍を派遣した陸抗は晋が呉を滅ぼす準備をしていると察知し建平郡西陵郡に兵力の増強要求した。また建平太守吾彦も、長江木くず流れてきていることから、王濬が蜀で船を建造していると推測し孫晧対し「晋は必ず呉を攻め心づもりです。建平の兵を増強すべきです。建平陥落しなければ、(晋軍は)長江を渡ることはできません(晋必有攻呉之計、宜増建平兵。建平不下、終不敢渡)」と述べたものの、孫晧はこれらの警告無視した。さらに274年陸抗憂慮中に死去すると、呉の中で晋に対抗できる名将はいなくなった

※この「呉攻略の準備」の解説は、「呉の滅亡 (三国)」の解説の一部です。
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