呉春門下時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 01:06 UTC 版)
豊彦は呉春門下で研鑚を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。 また、30歳頃の作として、画家の谷文晁・岸駒、狂歌師の大田南畝・石川雅望、国文学者・歌人の橘千蔭、歌人の香川景樹、賀茂社家の賀茂季鷹とともに寄合書した対幅(掛軸#掛物の種類参照)が残るが、当世きっての老大家たちと同席を許され、共作できたのは、有栖川宮家と親交があったことによると推測されている。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。
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