賀茂季鷹とは? わかりやすく解説

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賀茂季鷹

読み方かもの すえたか

江戸後期国学者京都生。姓は山本、号を生山雲錦和歌有栖川宮職仁親王に学ぶ。江戸で加藤千蔭村田春海歌人文人交わり、京に帰って上賀茂祠官となる。狂歌を得意とし、居を雲錦亭と名づけ歌仙堂を設け、また文庫数千巻の書を蔵した天保12年(1841)歿、91才。

賀茂季鷹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/01 04:22 UTC 版)

賀茂 季鷹
(『肖像集』)
人物情報
別名 号:生山、雲錦
生誕 宝暦4年2月6日 (1754-02-27) 1754年2月27日
日本京都
死没 天保12年10月9日 (1841-11-21) 1841年11月21日(87歳没))
日本・京都
国籍 日本
両親 父:賀茂季種
学問
時代 江戸時代中期から後期
研究分野 国学
影響を受けた人物 有栖川宮職仁親王
加藤千蔭
村田春海
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賀茂 季鷹(かも の すえたか、1754年2月27日宝暦4年2月6日〉 - 1841年11月21日天保12年10月9日〉)は、江戸時代中期から後期の国学者歌人神職である。姓は山本、は生山および雲錦[1]

経歴・人物

京都賀茂別雷神社の社官であった賀茂季種の子として生まれる。12歳の時に叔父であった賀茂季栄の養子となり、有栖川宮職仁親王から和歌を学ぶ[1]。19歳の秋に致仕して江戸に入り[1]加藤千蔭村田春海、三島自寛らから和歌古学を学んだほか、歌学以外にも太田南畝狂歌師とも親交を持ち、自身も狂歌を詠んだ[1]。38歳の春、京都賀茂に戻って賀茂別雷神社の神職を務め、正四位下安房守に任じられる[1]。雲錦亭や歌仙堂を造築して歌会を催し[1]、和漢書1000巻を集めた文庫を建造する[1]

小沢蘆庵の亡き後の京都における代表的な歌人であり、香川景樹とともに、化政・天保期の京都を代表する歌人である[1]。歌風は堂上風であった[1]。交友関係も広く、当時を代表する文人であった[1]。墓所は北区西賀茂の小谷墓地。

主な弟子

主な著作物

主著

  • 『雲錦翁家集』- 家集
  • 『富士日記』- 紀行文
  • 『みあれの(美阿礼乃)百草』- 門人との共著。

その他の著書

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第2巻』岩波書店、1984年1月、15頁。 

参考文献

外部リンク



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