厨川柵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
鳥海柵を攻略した官軍は15日についに安倍軍の本拠地である厨川柵へと到達した(厨川柵の戦い)。安倍の本拠地だけあって流石に厨川柵の守りは固く、安倍軍は柵上より雑仕女達に歌舞をさせて余裕を見せるなど官軍を挑発した。頼義以下将兵は大いに怒り、柵を遮二無二に攻めたが徒に被害を増すだけであった。そこで17日に頼義は火攻めを決意し、近隣の村々より木材や藁を集めるよう命じた。火攻めの準備を整えると、頼義は遥か皇城を拝み「かつて漢の将軍の忠節に呼応して枯池に水が溢れて軍の窮状を助けたといいますが、今、我が国においても天皇の御威光は新たかです。この御威光により大風が起こり私の忠節をお助けください。八幡の神々よ、何とぞ風を吹かせ火を起こして厨川柵を焼いてください」と祈念して火をかけると、忽ちに大風が起こり厨川柵を焼き上げるに至った。柵を焼かれた安倍軍は大混乱となり、ある者は官軍によって殺され、またある者は捕縛されていった。そのような中、官軍から離反した藤原経清も官軍に捕縛された。頼義はこれを喜び、直ちに検分する事とした。その離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰した経清に対する頼義の憎悪は凄まじく、「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切り、また畏れ多くも朝廷の御威光を蔑ろにした大罪人である。今ようやく貴様を虜にする事が出来た。貴様はこの状況でもまだ白符を使えとほざけるか」と罵ると、経清は深く頭を垂れたまま何も語らなかった為、頼義は鈍刀にて経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らす事が出来た。
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