毛利氏の家臣へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 21:10 UTC 版)
椙杜隆康には子がなく、毛利元就の五男・毛利元秋を養子としたが、元秋は月山富田城の城主となり、養子縁組は解消された。代わりに元秋の弟・毛利元康(末次元康)を養子としたが、またもや1585年(天正13年)に、元康は元秋死後の月山富田城に入り、養子縁組は解消されるに至った。そして再び隆康は毛利氏庶家志道氏の志道元保の次男、志道元縁を養子に迎えた。 元縁は長門国勝山城の在番に任ぜられたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、長府藩を興した毛利秀元の家臣となり、筆頭家老となった。
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