毛利氏への不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 09:49 UTC 版)
しかし、慶長4年(1599年)、不行跡を理由として広行は広島での蟄居を命じられ、広行に代わって父・広頼が吉見家の政務に復帰した。広行の蟄居は慶長5年(1600年)8月に解かれたが、以降も毛利氏の統制下に置かれて領主権を制限された。同年9月の関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長2ヶ国への減転封となると、広行も長門国へと移り住むこととなる。 慶長5年(1600年)11月2日に毛利氏家臣の知行地が決定し、広行は姉の夫である毛利元康の組に属して長門国厚狭郡のうちの山野井1459石、大持・福田293石、月田202石、賀茂庄の内の46石、合計2000石を与えられた。関ヶ原以前の広行は約1万5000石を知行していたため、転封後の毛利氏家臣の知行を決める際に基準となった元の知行の5分の1よりも知行が少なくなっているが、父・広頼の隠居料が約1000石あるため、合計すると基準通りである。しかし、戦国期より吉見氏との因縁がある益田氏が1万7500石を与えられた厚遇と比較して不満を抱いた広行は、関ヶ原の戦いでの敗北によって権威の低下した輝元を侮り、他大名などへの仕官の機会を窺っていた。輝元も広行の動向を不審に思い、慶長6年(1601年)11月19日に佐世元嘉へ宛てた書状において、「吉見などの事あぶなく候」と述べている。
※この「毛利氏への不満」の解説は、「吉見広長」の解説の一部です。
「毛利氏への不満」を含む「吉見広長」の記事については、「吉見広長」の概要を参照ください。
- 毛利氏への不満のページへのリンク