毛利氏の伊予出兵の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 14:20 UTC 版)
「毛利氏の伊予出兵」の記事における「毛利氏の伊予出兵の意義」の解説
この毛利氏の伊予出兵は、先述のように土佐一条氏と河野氏の争いに毛利氏が加担したというだけではなく、大友氏と毛利氏の争いでもあった。大友氏は九州への侵攻を企図していた毛利氏の軍勢を多少なりとも伊予国に釘付けにし、支配定まらぬ北九州への侵攻を遅らせようとしたことも、大きな要因のひとつであった。 毛利氏は九州と四国の二方面作戦を余儀なくされるが、小早川氏にとっては伊予国に勢力を拡大する絶好の機会であり、また来島村上水軍をはじめとする伊予国の海賊衆をその支配下に置いたことは大きな成果であった。 河野氏は伊予国内で独立して支配を確立することが不可能となり、毛利氏・小早川氏に従属して、その力を頼りに伊予国内の支配を続けられるのみの存在と成り果てた。河野通宣は村上通康の未亡人(宍戸隆家の娘で毛利元就の外孫にあたる)と再婚して永禄13年(1570年)頃に病没し、その後継者として村上通康の遺児が擁立されて河野氏最後の当主となる通直になったとする説がある。 この後、毛利氏、大友氏は北九州の覇権を争い、立花山城の戦い、門司城の戦い、多々良浜の戦い等で激戦を繰り広げ、その争いは毛利元就の死去頃まで続くこととなる。 土佐一条氏は、この毛利氏の伊予出兵において大きな被害を受け、国力を大きく落とした。また傘下であった長宗我部元親が独自の行動を開始し、自立の動きを見せる。長宗我部元親の勢力拡大の要因のひとつとして、この毛利氏の出兵における土佐一条氏の敗北が挙げられるのである。
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