毛利氏の服属と中国国分
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講和後の秀吉は6月13日の山崎の戦いで光秀を撃破、翌天正11年(1583年)3月にはかつての同僚柴田勝家と対立して賤ヶ岳の戦いで闘うこととなった。その際、輝元は秀吉・勝家の双方から同盟を申し込まれたが、中立を保っている。賤ヶ岳戦勝後の5月、秀吉は、東海・北陸地方での戦果と旧武田氏領をのぞき信長の旧版図が秀吉の支配下にはいったことを小早川隆景に書面で報じ、輝元が自分に従う覚悟をするなら、「日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と述べ、信長から自立した独自の政権づくりによって天下一統を推し進めていく抱負を示した。 秀吉は、領国割譲に関する毛利氏側の要請をいれて西伯耆・備中高梁川以西を毛利領として画定した。天正11年8月、毛利氏もこれを受諾して人質を秀吉に送ったことで境相論は解決し、中国国分がなされた(その直後、秀吉は大坂城築城を開始している)。毛利氏はこれにより中国地方9か国を有する大大名となった一方、秀吉政権に服属することとなった。しかし、天正12年(1584年)3月、秀吉は宇喜多秀家に対し毛利氏への備えを命令しており、必ずしもすべての警戒を解いたものではなかった。 天正12年12月末には、秀吉は、輝元の娘を養子の羽柴秀勝に娶せ、毛利氏とのあいだに縁戚関係を結んだ。天正13年(1585年)正月、秀吉は毛利氏との境界画定交渉により領土について大幅に譲歩し、南海道方面での協力を要請した。同2月には、小早川隆景にみずからの3月の紀伊攻めの意向を報じ、分国中のすべての警固船を和泉岸和田に集結している。この後、毛利氏は、羽柴秀長を総大将とする紀州攻め、四国攻めに協力した。同時に秀吉政権に深く組み込まれることとなり、秀吉は天正14年(1586年)、輝元に毛利領内の城割(城の破却)を命じている。
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