毛利氏の服属と中国国分とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 毛利氏の服属と中国国分の意味・解説 

毛利氏の服属と中国国分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)

中国攻め」の記事における「毛利氏の服属と中国国分」の解説

講和後の秀吉6月13日山崎の戦い光秀撃破、翌天正11年1583年3月にはかつての同僚柴田勝家対立して賤ヶ岳の戦い闘うこととなったその際、輝元は秀吉勝家双方から同盟申し込まれたが、中立保っている。賤ヶ岳戦勝後の5月秀吉は、東海・北陸地方での戦果と旧武田氏領をのぞき信長旧版図が秀吉支配下にはいったことを小早川隆景書面報じ、輝元が自分に従う覚悟をするなら、「日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と述べ信長から自立した独自の政権づくりによって天下一統推し進めていく抱負示した秀吉は、領国割譲に関する毛利氏側の要請をいれて西伯耆備中高梁以西毛利領として画定した。天正11年8月毛利氏もこれを受諾して人質秀吉送ったことで境相論解決し中国国分なされた(その直後秀吉大坂城築城開始している)。毛利氏はこれにより中国地方9か国を有する大大となった一方秀吉政権服属することとなった。しかし、天正12年1584年3月秀吉宇喜多秀家対し毛利氏への備え命令しており、必ずしもすべての警戒解いたものではなかった。 天正12年12月末には、秀吉は、輝元の娘を養子羽柴秀勝に娶せ、毛利氏とのあいだに縁戚関係結んだ天正13年1585年正月秀吉毛利氏との境界画定交渉により領土について大幅に譲歩し南海道方面での協力要請した。同2月には、小早川隆景にみずからの3月紀伊攻め意向報じ分国中のすべての警固船和泉岸和田集結している。この後毛利氏は、羽柴秀長総大将とする紀州攻め四国攻め協力した同時に秀吉政権深く組み込まれることとなり、秀吉天正14年1586年)、輝元に毛利領内城割(城の破却)を命じている。

※この「毛利氏の服属と中国国分」の解説は、「中国攻め」の解説の一部です。
「毛利氏の服属と中国国分」を含む「中国攻め」の記事については、「中国攻め」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「毛利氏の服属と中国国分」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毛利氏の服属と中国国分」の関連用語

毛利氏の服属と中国国分のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毛利氏の服属と中国国分のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中国攻め (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS