毛利氏の石見支配の重鎮の子
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「吉川経家」の記事における「毛利氏の石見支配の重鎮の子」の解説
天文16年(1547年) 、毛利氏の家臣で石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男として誕生。 永禄3年(1560年)に元服。翌年、尼子氏に寝返った石見国人・福屋隆兼らが率いる5,000人に居城の福光城を攻められた際には、若年ながら父・経安とともこれを迎撃した。その後の詳細は不明であるが、父とともに石見国の重鎮として国内の安定化に努めた。 天正9年(1581年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国討伐軍が因幡国まで侵攻した。毛利氏に従属していた鳥取城主・山名豊国は織田氏に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続に追放された。森下らは吉川元春に支援を要請した。元春はこの要請を受け入れ、家臣の牛尾元貞を派遣するも戦闘で負傷したため(討死説もある)、吉川一門で文武両道に優れた経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。この時、経家は自らの首桶を用意しており、その決死の覚悟を窺うことができる。 なお、異説では山名豊国は吉川経家が入城した時にも在城しており、吉川経家や鳥取城の情報を逐一織田方に密告しており、それが毛利氏に発覚したために逃亡したともいわれている。
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