吉川軍に従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 03:32 UTC 版)
永禄6年(1563年)頃より、元就は尼子氏を倒すべく軍を動かす。白鹿城を落とし、永禄8年(1565年)には月山富田城を包囲する。この時に広瀬川で藤兼の家臣・品川勝盛が山中幸盛と一騎討ちを行い、討死した。しかし尼子氏は大勢を覆すことができず、翌9年(1566年)に降伏した(第二次月山富田城の戦い)。 永禄10年(1567年)以降は尼子氏や大友氏との戦いで出雲・伯耆・豊前を転戦して活躍。元亀元年(1570年)には家督を嫡子の元祥に譲る。同年、石見で反乱を起こした三隅隆繁・国定兄弟を討伐して大いに戦功を挙げた。その後は元祥に元春の娘を娶わせるなどして毛利氏との関係を強めた。翌2年(1571年)にも布部山の戦いで吉川軍の一部として尼子再興軍を撃破している。 老境に入ると、所領の神社仏閣を再建し、手厚く保護し、慶長2年(1597年)に死去した。
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