厳島の戦い以降とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 厳島の戦い以降の意味・解説 

厳島の戦い以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:09 UTC 版)

村上武吉」の記事における「厳島の戦い以降」の解説

天文24年1555年)の毛利元就陶晴賢厳島の戦いの際には「1日だけの味方」の言葉引かれ毛利方に加担して以降毛利氏との関係深めたと言われるが、実際に能島水軍毛利方に加勢したかどうかについては見解分かれ確証得られていない。しかし、以後毛利氏周防長門平定防長経略)に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となった塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結んだ他、一族重臣である隆重を備中笠岡城、嶋吉利備前児島本太城村上武満周防上関瀬戸内要衝抑える位置に置き、通行する船から帆別銭通行料)を取り立て大い栄えた永禄12年1569年)に毛利九州攻め失敗すると、この頃より大友氏三好氏などと関係を深め始め大内輝弘の乱の際には大友水軍伊予灘素通りさせた。不穏な行動取り始めた武吉に対して毛利氏元亀元年1570年9月毛利元就毛利輝元小早川隆景三者起請文武吉交わし互い入魂の関係である事を改め確認した。 しかし武吉元亀2年1571年2月には公然と反毛利の姿勢取り毛利敵対する浦上宗景児島占拠窺う中で本太城に兵を入れて毛利方の児島守備隊背後脅かしたため、ついに小早川隆景本太城討伐の兵をあげ、4月までには陥落した同年7月に隆景が能島攻めの軍を起こす来島因島水軍もこれに従ったため、孤立した能島三好氏や塩飽水軍兵糧補給要請したが、これも隆景の軍勢阻止され、翌元亀3年1572年)まで能島包囲海上封鎖されるという苦境追い込まれた。 この後大友宗麟来島水軍武吉との講和仲介したり、「門司赤間伊予へと出兵して毛利を脅かす」と約束したりして、能島水軍反毛同盟への繋ぎ止め図ったが、結局のところ宗麟の約した門司赤間への出兵空手形であり、武吉考え徐々に毛利との関係修復へと傾いていく。天正3年1575年2月には備中兵乱平定に関して武吉が隆景に祝儀送っており、この頃までにはかなり毛利氏との関係改善していたと見られる毛利織田信長と戦うと、村上水軍小早川児島乃美水軍などと共に毛利水軍として活躍した。特に天正4年7月13日第一次木津川口の戦いでは、自身参加せず嫡男元吉出陣し主力として戦い大勝収めている。しかし信長鉄船6隻と戦った天正6年1578年11月第二次木津川口の戦いでは惨敗喫した

※この「厳島の戦い以降」の解説は、「村上武吉」の解説の一部です。
「厳島の戦い以降」を含む「村上武吉」の記事については、「村上武吉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「厳島の戦い以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「厳島の戦い以降」の関連用語

1
桂保和 百科事典
8% |||||

厳島の戦い以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



厳島の戦い以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村上武吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS