串原発電所
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串原発電所(くしはらはつでんしょ)は、かつて岐阜県恵那市串原(旧:恵那郡串原村字釜井)に存在した水力発電所である。矢作川本川に位置し、1920年(大正9年)から1968年(昭和43年)にかけて運転された。
- ^ a b c d 『串原発電事業誌』5-14頁
- ^ 『串原発電事業誌』15-18頁
- ^ a b 『串原発電事業誌』36-40頁
- ^ 『串原発電事業誌』63-67頁
- ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』25-35頁
- ^ 『串原発電事業誌』147-149頁
- ^ a b c 『串原発電事業誌』170-188頁
- ^ a b 『串原発電事業誌』199-202頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『大同電力株式会社沿革史』116-117・119-121頁
- ^ a b c 『串原発電事業誌』203-221頁
- ^ 『電気年鑑』昭和14年版16頁。NDLJP:1115068/29
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』414-418頁
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』424-426・452-543頁
- ^ 『中部電力10年史』83-93・231-234頁
- ^ 『中部地方電気事業史』下巻353頁
- ^ a b c 『矢作ダム工事誌』716-717頁
- ^ 『中部電力20年史』596頁(巻末年表)
- ^ a b c d 『串原発電事業誌』67-78頁
- 1 串原発電所とは
- 2 串原発電所の概要
- 3 脚注
串原発電所
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木曽川筋の発電所に先駆けて名古屋電灯では矢作川の串原発電所の建設を進めており、同発電所が臨時建設部最初の事業となった。所在地は岐阜県恵那郡串原村字釜井(現・恵那市串原)。 名古屋電灯が串原における水利権を申請したのは1915年9月である。第一次大戦下、電力需要の急増に対する処置を急いでいた同社は、水利権の許可が下りるのを待たずに1917年3月に仮発電所の工事許可を追加申請し、5月には未許可のまま仮発電所の建設に着手する。完成を急ぐために機械を発注・製作する時間をも省いて水車や発電機などは長良川発電所の予備機械を流用し、設計の簡略化と突貫工事も加えて工期短縮を図って、やや工事が遅れたものの1918年4月に仮発電所の落成に漕ぎ着けた。検査が終わり発電が可能となったのは同年6月4日のことである。とはいえ未許可で工事を始めたため途中で工事中止の命令を受け(1917年9月正式許可)、送電開始後も未完成の堰堤工事や水路修繕工事を繰り返す、という状態であった。仮発電所の出力は2,000キロワットで、木曽電気製鉄への分離後も発生電力全量を名古屋電灯を供給した。 仮発電所に続く本発電所の工事は、木曽電気製鉄発足後の1918年12月に開始された。当初計画では出力を4,600キロワットとする設計であったが、上流・下流側の水利権保有者から権利を譲り受けて発電所の有効落差を拡大したため、6,000キロワットに変更されている。工事許可の取得は翌1919年4月であり、この本発電所工事も未許可での着工であった。同年春に水車・発電機各2台を日立製作所に発注したものの納入が遅延するというトラブルがあったが、翌1920年(大正9年)12月21日、まず発電機1台の完成に伴い出力3,000キロワットで運転を開始した。別の機械の破損事故も発生したため全面竣工はさらに遅れ、6,0000キロワットでの運転開始は大同電力発足直前の1921年(大正10年)2月18日からとなった。本発電所の完成に伴い仮発電所は同年3月1日付で廃止された。
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