1920年代の動向
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「大阪市営電気供給事業」の記事における「1920年代の動向」の解説
1920年代を通じ、大同電力との間に締結された前記2つの電力供給契約に基づいて、同社からの受電は順次拡大した。1928年(昭和3年)までの推移は以下の通り。なお、「大阪電灯分」は旧大阪電灯との契約によるもの、「大阪送電分」は旧大阪送電との契約によるものを指す。 1923年10月 - 20,000kW新規受電開始。うち大阪電灯分16,000kW、大阪送電分4,000kW。 1924年4月 - 4,000kW増加、累計24,000kW。大阪電灯分。 1925年4月 - 8,000kW増加、累計32,000kW。同上。 1926年4月 - 8,000kW増加、累計40,000kW。同上。 1927年4月 - 6,000kW増加、累計46,000kW。同上。 1928年4月 - 4,000kW増加、累計50,000kW。大阪電灯分。 1928年12月 - 4,000kW増加、累計54,000kW。大阪送電分。 新規受電開始時と同様に、受電増加の際も当初契約から2割減に抑えられている。また1927年4月は定時・不定時各5,000kWの増加予定であったものを定時分については2割減の4,000kW、不定時分については定時に変更の上2,000kWの増加とした。これらにより、契約通りであれば1928年には大同電力から70,000kWを受電する予定であったものを、2割減の上にさらに2,000kWを差し引いた54,000kWに圧縮した。 購入電力の負担軽減は電灯市営化以降10年間の課題であった。大同電力とは料金を3年毎に改訂する契約であったので、最初の料金改訂期が1926年(大正15年)10月に訪れた。同年春頃から交渉を始めたものの纏まらず、11月になって当時受電中の40,000kWについて料金を2銭3厘から2銭2厘8毛、責任負荷率を70%から65%へそれぞれ低減する条件で決着した。2度目の料金更改期は1929年(昭和4年)10月で、大幅な値下げを目指して同年9月に交渉に着手したもののやはり早期に決着せず、12月になっても纏まらないので市側・会社側から各2名の仲裁者を選び逓信大臣小泉又次郎を加えた5名の裁定を仰ぐこととなった。裁定により料金は1kWhあたり2銭8毛、責任負荷率は60%へとさらに低減された。 宇治川電気との契約は、まず夜間20,000kW・昼間1,900kWのものが1925年(大正14年)5月に満期となったので、大同電力からの受電増により従来の高負荷率を維持できないことから責任負荷率を70%に引き下げるかわりに料金を1kWhあたり1銭5厘に引き上げる、という条件で継続した。一方、余剰となった昼間2,000kWの契約は1926年6月に解約。残る4,000kWの受電契約はは1926年10月に満期となり、大同電力と同一条件により継続、1928年12月にはさらに4,000kWの追加受電を行った。また1926年11月、日本電力との間で新規の供給契約を締結し、常時3,000kWと別途最大9,000kWの融通電力を1kWhあたり2銭2厘、責任負荷率60%という条件にて受電することとなった。 火力発電所は、購入電力の利用効率化のため、初期には石炭消費量の多い旧式発電所も冬季に全力で運転された。旧式発電所は1927年度を最後に九条第一発電所が、1929年度を最後に安治川発電所の稼働がなくなり、九条第二発電所のみの運転となっている。
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1920年代の動向
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1920年代に入ると隣接事業者の名古屋電灯が拡大路線を猛進し始め、短期間で一宮電気・豊橋電気など計6社を合併した上、1921年(大正10年)10月に奈良県の関西水力電気を巻き込んで関西電気へと姿を変える。関西電気発足後も拡大は続き、知多電気(旧・知多瓦斯)を含む周辺事業者9社と九州の九州電灯鉄道を合併して、1922年(大正11年)6月、資本金1億円超の大電力会社東邦電力へと発展した。 名古屋電灯が拡大しつつあった1921年8月、名古屋市も周辺16町村を編入し市域を拡大した。新市域には愛知電気鉄道の供給区域である愛知郡笠寺村も含まれる(南区笠寺町・鳴尾町・星崎町・本星崎町となる)。この旧笠寺村区域については、名古屋市一円を単一事業者の供給区域として供給面での混乱を避ける、という意図から東邦電力で買い取ることとなった。譲渡契約は1924年(大正13年)1月25日付で締結。愛知電気鉄道側では2月26日に事業譲渡を株主総会で可決した。逓信省からの譲渡許可が4月18日付で下り、同年5月1日付で事業引継ぎが完了した。譲渡した電灯数は2363灯、電力供給は54.5馬力で、譲渡代金は10万円であった。 1922年2月、知多郡東浦村の西端にあたる緒川新田での配電工事が完了した。東浦村の追加をもって愛知電気鉄道の供給区域拡張は打ち止めとなった。その一方で鉄道路線は東へと伸ばされ、名古屋と岡崎・豊橋を結ぶ豊橋線(現・名鉄名古屋本線の一部)が1927年(昭和2年)に全線開通をみた。以後、豊橋線が愛知電気鉄道の経営の柱となっていく。創業初期には供給事業収入が鉄道事業収入に匹敵する規模(1914年上期・1915年上期・1917年上期の計3期は供給事業収入の方が大きい)であり、建設費の有利な供給事業の利益によって鉄道事業を補うという事業構造であったが、1927年度以後は鉄道事業収入が供給事業収入の2倍超という規模になっている。 供給区域の拡大は限定的であったものの、電灯・電力供給成績は1920年代を通じて一貫して拡大し続けた。電灯供給では1920年上期に需要家数2万戸・灯数3万灯を突破。旧笠寺村区域を譲渡した1924年上期のみ前期比微減となるが、1925年上期に灯数が6万灯を超え、同年下期に需要家数も3万戸に達した。電力供給は1921年上期に1000馬力に到達、その倍の2000馬力を超えるのは1924年上期で、3年後の1927年上期には4000馬力を超えた。1929年11月末時点での供給成績は、電灯が需要家数3万3721戸・灯数7万9416灯、電力が需要家数1271戸・馬力数4950馬力(3693キロワット)であった。また供給拡大とともに供給設備も拡充されており、名和・日長両変電所に続く配電用変電所として西浦変電所(配電専用・1921年1月設置)と有松変電所(1923年4月設置)が新設されている。
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