1920年代の発電規模拡大
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「信濃電気」の記事における「1920年代の発電規模拡大」の解説
1922年(大正11年)春、関川の高沢発電所が火災に遭った。その復旧工事はただちに着手され、年内に一部が完了、翌1923年(大正12年)4月までにすべて竣工し、焼失前より100 kW増となる出力4,050 kWの発電所として復旧された。続いて1923年8月、樽川発電所が竣工した。北信地方の下高井郡上木島村(現・木島平村)にあり、信濃川水系の樽川や支流倉下川から取水する発電所である。当初の発電所出力は960 kWに設定された。発電所新増設の一方で、開業時からの発電所である米子発電所は1923年4月に廃止された。これは米子川上流にある米子鉱山(硫黄鉱山)から流出した鉱毒によって機械の腐食が進行したためである。 1925年(大正14年)秋、長野電灯佐久支社との間で相互に電力を融通するための設備として、長野電灯側で小諸変電所(北佐久郡小諸町)の増設工事、信濃電気側で大屋・小諸間の送電線新設工事が施工された。次いで同年12月、樽川発電所に続く自社発電所として鳥居川発電所が運転を開始した。当初の発電所出力は1,000 kW。長野県北部の上水内郡柏原村にあり、信濃電気が信濃川水系鳥居川に最初に建設した発電所になる。次いで翌1926年(大正15年)12月1日付で武石電力興業から同社経営の電気事業を譲り受けた。武石電力興業は武石発電所(出力200 kW)を建設した会社で、1925年7月2日付で資本金30万円をもって小県郡丸子町大字上丸子に設立されていた。この事業統合で信濃電気へと移管された武石発電所は、小県郡武石村(現・上田市)を流れる信濃川水系武石川(依田川の支流)にあり、1926年4月に竣工した。 昭和に入った後も信濃電気は発電力を拡大していく。関川では、1927年(昭和2年)7月、高沢第一発電所に隣接する高沢第二発電所が竣工した。高沢第一発電所の上流側に取水口を設けて別個の水路にて導水し発電するもので、その出力は10,800 kWに及ぶ。関川にはさらに高沢発電所の上流側に西野発電所(出力3,000 kW)が、支流清水沢に清水沢発電所(出力400 kW)が建設された。西野発電所は1930年(昭和5年)2月に運転を開始。関川下流に発電所を持つ中央電気と共同貯水池を設けるべく共同開発した笹ヶ峰ダムから主に取水し発電する。一方の清水沢発電所は同年12月の運転開始で、清水沢に設置された調整池を活用して発電する。 信濃川水系鳥居川では、鳥居川第一発電所に続いて上流部に鳥居川第三発電所(出力2,000 kW)、その一つ下流に鳥居川第二発電所(出力2,000 kW)、そして第一発電所の下流側に鳥居川第四発電所(出力670 kW)が整備された。上流側の鳥居川第三・第二両発電所は川の最上流部に設置された古池貯水池(種池に隣接)とともに1928年(昭和3年)6月に運転を開始。下流側の鳥居川第四発電所は1930年4月より運転を始めた。加えて1928年12月には上田地域にて横沢第二発電所(出力280 kW)も新設された。同発電所は横沢第一発電所と同じく小県郡長村、信濃川水系神川に位置する。 発電所新増設の結果、信濃電気の発電力は合計33,060 kW(1931年以降)へと拡大した。これは5年前と比べ2.5倍増という水準である。さらに自社発電所とは別に、長野電灯と共同で梓川電力という電力会社を新設し、同社を通じて1928年10月に信濃川水系犀川(梓川)にて霞沢発電所を完成させた。最大出力31,100 kWという大型発電所で、南安曇郡安曇村(現・松本市安曇)に立地する。この霞沢発電所の発生電力は、信濃電気・長野電灯両社では自社消化できる需要がないことと周辺にある既設送電系統の都合から、一括して関東地方の大手電力会社である東京電灯へと売電された。
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