1920年代から1980年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 20:18 UTC 版)
「バーリトゥード」の記事における「1920年代から1980年代まで」の解説
1920年代のブラジルで「バーリトゥード」と呼ばれる格闘技が、サーカスの余興として人気を博した。こうした余興の様子を描いた1928年10月4日付の『Japanese-American Courier 』の記事は次のようなものであった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ブラジルからのある報道は、柔術は真に優秀だと宣言し、大サーカスの横に設けられたサイドテントで行なわれた興味深い公開試合において、バイーア州出身の化け物のように大きな男が、小柄な日本人格闘家の手にかかってコテンパンにやっつけられたことを伝えた。大男は南アメリカに古くから伝わる格闘技であるカポエイラの達人だったが、日本人を背負って、頭を蹴ろうとしたところ、...この小柄な東洋人が柔術を使って反撃し、大男を掴んで投げ飛ばし、少しばかり格闘した後、最後は動かなくなった大男の上に腰を下ろして座っていたという。 しかし、このサーカスの用語が、広く一般的に使われるようになるのは1959年から1960年にかけての時期に、リオデジャネイロのテレビ局の番組『Heróis do Ringue』(「リングのヒーローたち」の意)において、様々な格闘技の選手同士を対戦させる試合を説明する際に使われたときだった。この番組のマッチメーカーや司会者は、カーウソン・グレイシーやカーリー・グレイシーといったグレイシー一族が務め、いずれの出場者もそれぞれのスタイルで鍛えた本物の手練であった。ある晩の放送中、ジョアン・アルベルト・バレート(João Alberto Barreto:後に UFC 1 のレフェリーを務めた人物)は、ルタ・リーブリの選手と戦うことになった。その試合でバレートは相手をつかまえてアームロックの技をかけたが、相手はギブアップしなかった。結局、バレートはそのまま相手の腕を折ってしまった。こうした成り行きの結果、番組は打ち切りとなり、程なくして『Telecatch』というプロレス番組が後継の番組となった。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1960年代以降のバーリトゥードは、ほとんどサブカルチャーの域を出ない存在となり、試合のほとんどは、格闘技道場や小さな体育館で行なわれていた[要出典]。サブカルチャーとしてのバーリトゥードは、主としてリオデジャネイロで行なわれていたが、北部地方 (Região Norte) や南部地方 (Região Sul)、さらにカポエイラが盛んなバイーア州でも、数多くの試合が行なわれた。リオデジャネイロのシーンでは、ブラジリアン柔術とルタ・リーブリの抗争に焦点が当てられていたが、他の地域における対戦では,より広く様々な格闘技が競う形態となることが多かった[要出典]。
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