1920年代から1940年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:55 UTC 版)
「デンマークの映画」の記事における「1920年代から1940年代」の解説
第一次世界大戦中、アメリカ映画の隆盛により、デンマークでの映画製作や、デンマーク映画の輸出は減少していった。第一次世界大戦後、カール・テオドール・ドライエルは『裁判長』Præsidenten (The President,1919) やD・W・グリフィスの『イントレランス』(1916) に影響を受けた『サタンの書の数ページ』Blade af Satans Bog (Leaves from Satan's Book, 1921) といった優れた作品を制作した。しかしながら、ドライエルやベンジャミン・クリステンセンといった監督たちはデンマーク映画界にそれほど大きな影響を与えることはなかった。全体的に見るならば、映画技術の向上に反して、1920年代のデンマーク映画は下降傾向にあった。この時期において特筆すべき映画は、A・W・サンドバーグによるディケンズ映画と呼ばれた作品であろう。また、スタン・ローレルとオリヴァー・ハーディの前身とも言えるさすらいの二人組 Fyrtaarnet og Bivognen を主人公にした多くの喜劇映画が国際的な人気を博した。こういった作品があったにもかかわらず、1920年代の終わり頃、デンマークの映画産業は芳しくなかった。 1929年、ノルディック・フィルム・カンパニーは音声映画の会社を設立する。ノルディック・フィルムは1931年の The Pastor of Vejlby により、デンマークのマーケットにおいて更なる影響力を持つようになる。また、1930年代には軽めのコメディ映画を多くヒットさせた。しかし大恐慌により、映画会社がよりシリアスな映画ビジネスに乗り出すことが難しくなった。また、どの国の映画にも言えることだが、音声が入ったことで、デンマークの映画が国際的に上映されるという可能性が少なくなってしまった。多くの人気スター、たとえばマーガレット・ヴィビー (Marguerite Viby) 、イプ・シェーンベルグ (Ib Schønberg) 、ペーター・マルベール (Peter Malberg) といった俳優も出現し、彼らの作品はそれなりの成功を収めたが、メディアとしてそれ以上の発展は見られなかった。 1940年から1945年、ドイツがデンマークを占領した期間に芸術的な映画が作られるようになる。ボディル・イプセンの Black Tie (1942) や Melody of Murder (1944) といった作品はインターナショナル・レベルのロマンティック・コメディやサイコ・スリラーであった。また、アメリカのフィルム・ノワール(1945年以降現れた)に通じるような、暗いトーンの作品が現れたのもこの時期である。 ヨハン・ヤコブセンのウィットに富んだエレガントな作品や、エルンスト・ルビッチの作品によってコメディ作品の質も上がっていった。また、Ole Palsbo のシニカルで鋭い作品や、夫婦で映画製作に携わった Henning-Jensen の写実的な作品などにより、戦後すぐの数年間にも質の向上が見られた。しかし、しばらくすると再び戦前の状態に戻ってしまい、センチメンタルなコメディや、単純な作品が主流を占めるようになってしまう。
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