1920年代および世界恐慌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 18:44 UTC 版)
「インディアナ州の歴史」の記事における「1920年代および世界恐慌」の解説
戦時の経済はインディアナの工業と農業に隆盛を呼び、1920年代を通じて都市化が進んだ。1925年までに大きな里程標を過ぎた。農業よりも工場労働者の数が多くなったことである。最大の産業は製鋼、鉄工、自動車および車両だった。 1925年に議会の半数以上がクー・クラックス・クランに支配されているというスキャンダルが発生した。1925年議会の間、グランド・ドラゴンのD.C.スティーブンソンは「私がインディアナの法律だ」と嘯いた。スティーブンソンはその年に殺人罪で告発され、終身刑を宣告された。スティーブンソンが選ばれるのを助けたエドワード・ジャクソン知事がスティーブンソンに対する恩赦を拒んだ後で、スティーブンソンは多くの共謀者の名前を挙げ始め、知事、インディアナポリス市長、検事総長等々、指導的フージアに対する一連の逮捕と告発に繋がった。この弾圧でクランの力が実質的に失われた。 1930年代のインディアナ州は、合衆国の他の州と同様、世界恐慌に襲われた。経済の減速はインディアナ州に広い範囲で負の影響を与えた。1920年代の都市化に向かった動きの大半が失われた。事態はダストボウル(砂塵被害)によって悪化し、西部からの移民の流入を呼んだ。 ポール・V・マクナット知事のとき、先の見えなくなった私的慈善事業を助けるために州予算による福祉制度をゼロから作り上げようとした。その任期中に、不況に対応して支出と税金は共に劇的に削減され、州政府は完全に再編成された。マクナットは州内の禁酒法を終わらせ、州では初めての所得税を法制化した。幾つかの場合では、戒厳令を宣言して労働者のストライキを止めさせた。 世界恐慌の間、失業率は州全体で25%を超えた。特に州南部は最悪の年に50%にもなった。公共事業促進局が1935年7月にインディアナでも事業を始めた。同年10月までに74,708人が事業局によって職にありついた。1940年でもまだ64,700人が事業局のために働いていた。これら労働者の大半は、州内道路の改良、橋、灌漑計画、水処理工場、指標つき図書館、および郵便局の壁画造りにまで雇われ、どの地域社会にも働くプロジェクトがあった。 1930年代には、インディアナ州の多くの著名な企業が崩壊し、鉄道は破産し、銀行が店を畳んだ。製造業は先細りする製品需要のために突然停止するか大きく生産調整を行った。不況は第二次世界大戦までインディアナ州に悪い影響を与え続け、その後も長く感じられ続けた。
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