1920年代:高まる名声
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「フランシス・プーランク」の記事における「1920年代:高まる名声」の解説
1920年代初頭から、プーランクは国外、特にイギリスにおいて演奏家及び作曲家として高く評価されるようになった。アーネスト・ニューマンは1921年に『マンチェスター・ガーディアン』紙に次のように書いている。「私はまだ20代になったばかりの若者、フランシス・プーランクに注目している。彼は第1級の道化人へと成長するはずである。」プーランクの連作歌曲『リボンの結び目』はコルネット、トロンボーン、ヴァイオリン、打楽器という普通でない組み合わせの楽器群が伴奏となっており、そこでニューマンはそれまでほとんど聞いたことのないような楽しいおふざけを聞いたのだと語っている。1922年にミヨーと共にウィーンへ赴いたプーランクは、アルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルン、アルノルト・シェーンベルクと出会っている。フランスから来た2人はいずれも、これらオーストリアの同業者による革命的な十二音技法からは影響を受けなかったが、それを牽引する提案者としてこの3人を賞賛した。翌年、プーランクはセルゲイ・ディアギレフから完全長のバレエ音楽の委嘱を受けた。プーランクは題材をフランスの古典である『雅なる宴(英語版)』を現代に移し替えたものにしようと心を決めた。この作品『牝鹿』は最初は1924年1月にモンテカルロで、その後5月にパリでアンドレ・メサジェの指揮により上演され、たちまち成功を収めた。同作品はプーランク有数の知名度を誇る作品であり続けている。バレエの成功に続いてプーランクを有名にしたのは、思いがけずサティと疎遠になった理由であった。プーランクが新たに交友を持った人物の中に作家のルイ・ラロワがいたが、サティは彼を執念深く敵視していたのである。やはりディアギレフと組んだバレエ『うるさがた』で同じように成功を手にしたばかりであったオーリックも、ラロワと交際したためサティから拒絶されてしまっていた。 10年の時が経ち、プーランクは歌曲から室内楽曲、新たなバレエ、そして協奏曲『オーバード』と多種多様な作品を生み出していた。エルはケクランの影響によりプーランクの自然で簡素な様式が時おり抑制されており、またプーランクが本当の色彩により自分を表現するにあたってオーリックが有用な助言を提供したと唱えている。これら2人の友人の音楽で1926年に開かれたコンサートにおいて、プーランクの歌曲を初めてバリトンのピエール・ベルナックが歌うことになった。エルの言によれば、「プーランクは間もなくその名前とは分かち難くなった」のであった。プーランクと近しい関係となったもうひとりの演奏家がクラヴサン奏者のワンダ・ランドフスカである。彼はファリャの『ペドロ親方の人形芝居』(1923年)でランドフスカが独奏をするのを聞いていた。同作品はこの当時の作品にクラヴサンを用いた先駆け的楽曲であり、彼はたちまちその音色に魅了された。ランドフスカの依頼によりプーランクは『田園のコンセール』を作曲、1929年にランドフスカの独奏、ピエール・モントゥー指揮パリ交響楽団によって初演された。 伝記作家のリチャード・D・E・バートンが述べたところでは、プーランクは1920年代終盤には羨まれるような立場に居たように思われるという。プロとして成功を収め、独立して裕福で、父からは相当な額の遺産を受け継いでいたのである。パリから南西へ230キロメートルに位置するアンドル=エ=ロワール県、ノワゼ(英語版)に、ル・グラン・コトー(フランス語版)と呼ばれる大きな邸宅を購入したプーランクは、安らかな環境で作曲するためにこの地へ逃れてきていた。しかし、彼は主として同性愛であった自らの性的嗜好と折り合いをつけることにもがき、悩まされていた。初めてとなる真剣な恋愛関係を持ったのは画家のリシャール・シャンレール(英語版)であった。彼はシャンレールに『田園のコンセール』の写譜を送り、そこへ次のように記した。「貴方によって私の人生は変わりました、貴方は幾年もの私の渇きの陽光であり、生きて働く理由なのです。」にもかかわらず、プーランクはこの恋愛の継続中に友人のレイモンド・リノシエに求婚していた。彼女はプーランクの同性愛傾向をよく知っていただけでなく、他に心惹かれる人物がいたためプロポーズを断ったのだが、これによって両者の関係はぎこちないものとなってしまった。プーランクには幾度も抑鬱期が訪れることになるが、その最初のものが降りかかって作曲する能力にも影響が出ていた。さらに1930年1月にリノシエが32歳で急逝、彼は打ちのめされた。リノシエの死にあたってこう記している。「私の青年時代の全てが彼女と別れようとしている、人生のあの頃の何もかもが彼女だけのものだった。すすり泣いている(略)今、20歳の私がいる。」シャンレールとの恋愛関係は1931年には先細りとなっていくが、2人は生涯友人であり続けた。
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