1920年 西田無学の影響
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「久保角太郎」の記事における「1920年 西田無学の影響」の解説
久保角太郎は、当時巷で人知れず無縁仏を含む万霊供養を実践していたという西田無学の存在とその思想を知る。何の見返りもなくただひたすらに無縁仏の供養に明け暮れていたという西田の生き方に、生死に関わらず一切衆生に仏の教えを伝えようとする菩薩の生き方を角太郎は感じとったようである。しかし、角太郎が西田の存在を知るその前々年には西田は既に他界していた。そして残された少数の信者達が西田の思想と行法を細々と保持している状態であった。 西田無学の思想は、法華経常不軽菩薩品第二十の、すべての人が仏になれることを信じて決して誰も軽んじず、ひたすらに尊重礼拝するといういわゆる但行礼拝行をその発想の原点として、その対象を死者にまで広げ、法華経の開経である無量義経からの抜粋と同じく結経である仏説観普賢菩薩行法経からの抜粋をもって、供養するというものであった。特に、自らの先祖は自分自身に繋がる最も縁のある人々であり、その供養を他人任せに(僧侶に供養してもらうという事)するのは、自分自身を他人任せにするに等しいとして、自ら自身の先祖を供養するという在家主義による先祖の供養の重要性を強調した。 西田はまた、仏法における人々の平等性を強調し、既成仏教において布施の金額によって戒名の格付けまでなされている事に強く反発し、全ての人に平等に生・院・徳という格の高い文字が含まれた法名を付け直し、それを成仏への願いの象徴として、真心を込めて供養するというシステムを作り出した。 角太郎はこの西田の思想と行法に大きな影響を受けたが、もともと西田無学という類まれなるカリスマに引き寄せられる形で自然発生していた当時の信者集団とその信仰形態は、西田に対する依存体質が強く、そのままでは、誰もが実践できる普遍的な菩薩行にはなりえないことも角太郎は看破していた。 その後、角太郎は、普遍的な菩薩行を確立すべく、本格的な法華経研究と実践的な方法論の試行錯誤に没入していった。つまり彼は、国民皆教育が普及した社会状況を見て、今こそ大乗仏教特に法華経の理想である在家による菩薩行普及の道が開けたことを悟り、その為の具体的な方法論の確立が急務である事を自覚し、それを模索していたのであった。
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