電気事業の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 09:30 UTC 版)
東海曹達の起業後、電気製鋼所(大同特殊鋼の前身)の寒川恒貞・下出義雄が製鋼用電極の自給を図るべく企画した東海電極製造(現・東海カーボン)の設立に駒吉も参加し、1918年(大正7年)4月の会社設立とともに取締役に就任した。同社には死去するまでの27年間にわたり取締役として関係することになる。次いで翌1919年(大正8年)3月、矢作水力の設立とともに同社の取締役に就任、さらに3か月後の6月にも白山水力の設立とともに取締役の一人となった。どちらも父桃介が設立に関与した電力会社で、矢作水力は矢作川水系での電源開発を、白山水力は北陸地方での電源開発をそれぞれ設立目的としていた。 このうち矢作水力は設立時より井上角五郎が社長を務めたが、土木技術者出身の専務杉山栄が事実上の主宰者であった。設立3年後の1922年4月24日、駒吉も首脳陣に加わり副社長に就任。次いで1928年4月28日、矢作川開発の一巡を機に井上が引退したため、駒吉がその跡を襲って矢作水力第2代社長に就任した。ただし社長とはいえ駒吉が会社の実務に関与することは少なく、後任副社長に昇格した杉山栄が引き続き主宰者であったという。社長就任2か月後の1928年6月、父桃介が実業界引退を宣言し、当時務めていた大同電力社長・天竜川電力社長などから退く。駒吉はこのうち天竜川電力の後任社長となった。同社は大同電力などが出資する天竜川開発のための電力会社である。 駒吉が共通の社長となったこともあり、矢作水力と天竜川電力の合併が具体化され1931年(昭和6年)11月合併成立に至った。翌12月、旧天竜川電力の親会社・大同電力でも駒吉は監査役に就任し、以後同社解散直前の1939年(昭和14年)3月まで在任している。続いて1933年(昭和8年)、矢作水力は同じ福澤系の白山水力も合併する。相次ぐ合併により矢作水力は資本金が設立時の500万円に比して16倍超となる8435万円に達し、大同電力など業界大手(五大電力という)に次ぐ規模の電力会社に発展した。 また矢作水力副社長直後にあたる1922年6月、関西電気改め東邦電力の取締役に就任した。同社は1910年代を通じて父桃介の本拠であった名古屋電灯(末期は関西電気)と、北部九州を地盤とする福澤系の九州電灯鉄道などが合併して成立した、資本金1億円超の大規模電力会社である。当初副社長、1928年以降は社長を務める松永安左エ門が経営を主宰した。この東邦電力では、駒吉は翌1923年(大正12年)下期より神谷卓男の後任として常務取締役に昇格する。同社では常務兼総務部長という地位にあったが、1927年(昭和2年)5月の職制変更で部長からは外れ、専務田中徳次郎・取締役岡本桜とともに松永副社長の決裁事務に参与する、という役回りとなった。その後1929年下期をもって常務から退き、1933年5月の役員改選を機に取締役からも退任した。
※この「電気事業の経営」の解説は、「福澤駒吉」の解説の一部です。
「電気事業の経営」を含む「福澤駒吉」の記事については、「福澤駒吉」の概要を参照ください。
- 電気事業の経営のページへのリンク