ソーダ事業の起業
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福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。駒吉が生まれた後、桃介は実業家として成功を収める。桃介は1910年代を通じて愛知県の電力会社名古屋電灯の経営にあたり、1921年(大正10年)からは木曽川開発などを手掛ける大手電力会社大同電力の社長の座に就くなど、電気事業の経営が実業界での活動の中心であった。父に関連して駒吉も電力会社に関係したが、駒吉は父がほとんど関係してこなかった化学工業の経営に注力した。 駒吉は1913年(大正2年)慶應義塾大学部法律科を卒業、その後アメリカ合衆国を遊学する。帰国後、父桃介から、化学者山崎甚五郎が研究中のビリター・ライカム (Billiter-Leykam) 式隔膜電解法による苛性ソーダ製造について事業化を実現するよう指示をうける。まず駒吉は山崎の指導の下、名古屋市中心部にあった名古屋電灯社有地を借りて試験工場の建設に取り掛かり、1916年(大正5年)4月「東海曹達工業所」を設立した。8月から工場の操業を始めると苛性ソーダの製造は当初から順調で、さらし粉製造に問題が生じたものの改良の結果好成績を収めることができた。12月工業所における試験が終了、事業化を目的に桃介や三菱財閥の岩崎久弥らの出資によって資本金100万円の東海曹達株式会社が立ち上げられた。駒吉は同社の初代社長に就任する。当時25歳で、これが実業家としての第一歩となった。 東海曹達の創業に際し、駒吉はソーダ製造に熱中して自らソーダ製造法を発明し特許を得るほどのソーダ通となったという。同社では名古屋港四号地(名古屋市港区築地町)に本格的なソーダ工場を建設、1917年(大正6年)6月より製品の出荷を開始した。戦後恐慌に際しては操業効率改善のためアレン・ムーア (Allen-Moore) 式隔膜電解法の導入を決定し1922年(大正11年)完成させる。その後も四号地には工場拡張用地があったが、付近で宅地化が進みつつあったため工場を移転して土地を売却することに決定、東海曹達の株主を中心として別途新会社昭和曹達株式会社が1928年(昭和3年)12月に設立された。資本金は150万円で、東海曹達同様に駒吉が社長に就いている。アレン・ムーア法による昭和曹達の新工場は名古屋港七号地(港区昭和町)に建設され、翌1929年(昭和4年)12月操業開始に至った。 東海曹達は昭和曹達の操業開始と引き換えに閉鎖・会社解散となる予定であったが、折からの需要増加に伴い7年後の1936年(昭和11年)末まで設備そのままで存続した。駒吉の固定資産償却を重視するという経営方針によってすでに工場建設費の償却を終えていたため、金を掛けずにできる限り稼働させてから閉鎖する方針となったことによる。石山賢吉が1936年に工場を訪れた際には老朽化が酷く漏れた塩酸の臭いがただよう工場であったという。
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