電気事業へ参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:47 UTC 版)
議員となった頃、後藤新平から福澤桃介を紹介され、福澤の事務所を訪ねて面会した。これが増田の電気事業に関係するようになった契機である。 福澤が関与していた企業の一つに、愛知県の電力会社名古屋電灯があった。福澤は1913年1月に同社常務取締役に就任して経営権を掌握し、翌1914年(大正3年)に社長へと昇る。名古屋電灯では以前から木曽川において水利権を獲得していたが、福澤が経営権を握ると木曽川開発を本格化させる。そして木曽川全体の開発計画を取り纏め、1915年9月に逓信省へその許可を申請、10月には許可済みの取水量を増加するべく長野県当局へと申請を行った。しかしこれらの申請が許可されるには、帝室林野管理局の了承を取り付ける必要があった。木曽川上流域には帝室林野管理局が管理する木曽御料林があり、この御料林で伐採された木材の輸送を木曽川の河水を用いて行っていた(木材流送)ためである。 福澤は帝室林野管理局との問題を解決するにあたり、逓信大臣時代に臨時発電水力調査局を設置して全国の河川を調査させるなど水力開発に熱心であった後藤新平に支援を求めた。後藤はこれを受け入れるとともに、手伝う人があった方が良いだろうということで増田次郎をその役に推薦した。増田は福澤に面会するとすぐさま名古屋電灯の嘱託となり、帝室林野管理局との交渉役に任ぜられる。中央の大臣から地方の役人まで幅広く交渉を進めるにあたって、世故に長け性格は円満という交渉役に適材なことが買われての電力業界入りであったという。 帝室林野管理局との交渉は、最終的に木材輸送の代替交通機関として森林鉄道を敷設し、その資金を電力会社側が出すという条件で纏まった。御料材輸送の問題が解決して木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯は開発部門を分離して1918年(大正7年)9月に新会社木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する。社長に福澤桃介、副社長に下出民義が就任し、増田も常務取締役に名を列ねた。木曽電気製鉄では常務と兼任で東京海上ビルに入る東京支店の支店長を務めた。続いて1919年(大正8年)11月、木曽電気興業と京阪電気鉄道の合弁により関西地方への送電を目指して大阪送電株式会社が新設される。同社でも福澤が社長に就き、その下で増田は常務取締役に名を連ねた。 この時期には木曽電気製鉄の他にも福澤系企業の役員を務めた。一つは愛知県内での鉄道建設のため福澤を社長として設立された東海道電気鉄道で、1919年9月の会社設立とともに取締役に就いた。ただし同社は開業に至ることなく3年後の1922年(大正11年)7月に愛知電気鉄道へと合併されている。もう一つは福澤が社長を務める香川県の電力会社四国水力電気で、1916年12月より監査役となった。
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