電気事業再編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:54 UTC 版)
詳細は「電気事業再編成令」を参照 1948年2月22日、中部配電は他の配電会社8社および日本発送電とともに過度経済力集中排除法(集排法)の指定を受けた。電力国家管理の体制を見直す動きは終戦後から存在したが、集排法指定を機に本格化していくことになる。 集排法指定を受け、当事者である日本発送電と各配電会社は4月22日付で各自別々に再編成計画書を持株会社整理委員会へと提出した。日本発送電の再編計画は発送配電事業の全国一元化を目指す内容、各配電会社の再編計画は地区別9社を発送配電一貫経営に再編する内容であった。以後、政府やGHQ内部で再編成をめぐる議論が続くが、成案化には至らなかった。1949年になるとGHQ内部において関西・中部・北陸を1社に統合して7社の発送配電一貫経営の電力会社に再編するという7ブロック案が具体化されるようになる。7ブロック化の動きに対し中部配電は需要地としての中部地方の独自性を主張して反対運動を展開し、需要家側の名古屋商工会議所なども反対の声をあげた。結局GHQは再編成の具体案作成を日本側にゆだねる方針を採り、その結果1949年11月に通商産業省の諮問機関として「電気事業再編成審議会」が立ち上げられた。 翌1950年(昭和25年)2月、電気事業再編成審議会の答申が通商産業省へ提出された。その内容は、全国を9ブロックに分け新会社を設立しつつ日本発送電の設備の半分程度を電力融通会社に引き継がせるというものであったが、日本発送電を全面的に解体し設備をすべて9つの新会社に分配するという会長松永安左エ門の案(松永案)も参考として添付されていた。しかし融通会社案はGHQの賛同を得られず、通商産業省は松永案の採用を決定、GHQとの折衝の末に企業形態は松永案、行政機構についてはGHQの意向に沿った路線で具体案を策定すると結論付けた。そして4月から再編成法案の国会審議が始まるが、今度は政府案が与党自由党を含め国会の支持を得られず、5月に法案は審議未了・廃案となった。 1950年11月になり政府は自由党の要求を盛り込んだ修正案を決定するが、今度はこの修正案がGHQの賛成を得られず電気事業再編成の動きは行き詰った。ここに至り連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは吉田茂総理大臣宛に再編成促進を求める書簡を送付、これを受けて政府はいわゆる「ポツダム政令」によって電気事業再編成を実施する方針へと転換する。そして松永案とほぼ同じ企業形態への再編を規定する「電気事業再編成令」と電力行政を規定した「公益事業令」を11月24日付で公布した。
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