電気事業再編の進展
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設立後の三重合同電気は、資本的・技術的・経済的統制を図る目的で引き続き三重県内の事業者を吸収する方針を立て、積極的に事業の統合を進めた。 まず1922年9月11日、山脇知事の合併勧告を受けていたものの三重合同電気設立に参加していなかった巌倉水電を合併、同時に同社系列の比奈知川水電も合併した。このうち比奈知川水電は、巌倉水電社長の田中善助により、青蓮寺川の開発に続いて比奈知川を開発するべく1919年(大正8年)4月資本金50万円で設立された発電会社である。合併直前に比奈知発電所(出力800kW)が完成していた。この2社の合併は創立総会から間もない1922年5月30日の臨時総会で議決。合併に伴う三重合同電気の増資額は165万円増加であった。 統合後、翌1923年(大正12年)にかけての短期間に送電設備の建設が相次いだ。津・松阪間や松阪・山田間の連絡送電線新設、伊賀地域の発電所周波数統一ならびに箕曲発電所(旧津電灯)・比奈知発電所間連絡線新設などからなり、1923年3月には山田から鵜方までの鵜方送電線も完成、鵜方村(現・志摩市)をはじめとする志摩郡・度会郡の30村に対する供給も開始する。加えて同年5月31日、帝国汽船の電気事業を15万6765円にて買収した。供給区域は志摩郡鳥羽町および加茂村(現・鳥羽市)で、1921年度時点での供給実績は電灯供給5,021灯であった。鳥羽地区での電気事業は1909年(明治42年)7月に鳥羽造船所の附属事業として始められ、造船事業の消長とともに経営主体が変化した後1918年より帝国汽船の手で経営されていた。三重合同電気では5月中に鳥羽にも変電所を新設している。 続いて1925年(大正14年)1月31日、三重共同電力の事業を254万5970円で買収した。同社は三重合同電気設立前の1919年8月、津電灯・伊勢電気鉄道・北勢電気・巌倉水電・松阪電気の5社の出資により資本金100万円で設立された発電会社で、大型火力発電所の共同建設によって効率化と供給の安定化を図る狙いがあった。火力発電所に先立って1921年12月、波多瀬発電所(水力、出力800kW)を建設。1923年7月には三重火力発電所(下記で詳述)の運転を開始し、44キロボルト (kV) 送電線を架設して四日市・宇治山田方面へ送電していた。 1925年11月、鳥羽沖の離島坂手島への海峡横断配電線工事が完成し島への配電が始まった。次いで翌1926年(大正15年)2月、坂手島の北にある答志島(答志村・桃取村)への工事が完成する。答志島では三重合同電気の進出に先立つ1922年12月に答志電気という事業者がガス力(内燃力)発電を電源に開業していたが、三重合同電気では1926年5月にその事業を買収した。同社は資本金5万円、供給区域は答志島のうち答志村で、1924年度時点の供給実績は電灯供給610灯であった。さらに1926年8月、菅島への配電工事も完了し、鳥羽沖離島3島での工事が終了した。 昭和に入っても事業統合は続けられ、1927年(昭和2年)5月15日、北牟婁電気と尾鷲電気の2社が合併された。合併による増資額は計82万円である。北牟婁電気は1915年(大正4年)12月の開業で、資本金10万円、本社は松阪町にあり安保庸三が社長を兼任していた。供給区域は北牟婁郡長島町(現・紀北町)ほか4村、1926年度時点の供給実績は電灯供給5,227灯、電力供給60.4キロワット (kW) であった。一方尾鷲電気は地元有志の手で北牟婁郡尾鷲町(現・尾鷲市)にて1910年5月に設立され、同年10月に開業。資本金は110万円で、安保が取締役として入っていた。供給区域は尾鷲町をはじめとする北牟婁郡・南牟婁郡12町村、1926年度時点の供給実績は電灯供給16,454灯、電力供給164.9kWであった。合併に前後し、滝原まで伸びていた送電線が1927年4月に長島まで延長され、11月には尾鷲まで到達した。
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