電気事業とその廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:56 UTC 版)
業績不振に悩む上野鉄道は、1913年(大正2年)に山田昌吉を監査役に迎えた。高崎水力電気の取締役でもあった山田はこの事態を打開するため高崎水力電気と合併することを計画し1921年(大正10年)6月に合併の仮契約をむすんだ。ところがその高崎水力電気は東京電灯との合併話が進展しており、東京電灯は経営難の上野鉄道を引き受けることは難色を示していた。そこで山田が事態収拾に奔走した結果、合併契約を解消する代償として「高崎水力電気は所有する室田発電所(群馬郡室田町上室田地区、水力、出力800kW)を9万円で譲渡する」「電化補助費として5万円を贈る」ことによりこの問題を解決させた。そして8月25日の臨時株主総会において高崎水力電気との合併仮契約解除が承認されると共に、電化の計画と軌間の拡張が協議され、資本金を200万に増資し社名を上信電気鉄道に改称し、初代社長に山田が選ばれた。 1923年(大正12年)2月5日に逓信大臣より電気事業の認可を受け、室田発電所は4月1日に引き継がれた。当初富岡に変電所を設置して室田発電所からの送電により運用しようとしていたが、万一の時に不安が残るためその電力を東京電灯に卸売りし、必要な電力は東京電灯より購入する方式に変更し、変電所は福島に設けられた。そして1924年(大正13年)10月1日より電気事業を開始した。この新規事業が好調であったことから、1929年(昭和4年)に北甘楽郡月形村、磐戸村、 青倉村に配電していた南牧電気、1930年(昭和5年)には北甘楽郡尾沢村に配電していた羽沢発電を買収し、北甘楽郡の供給事業へ進出した。そのとき獲得した大仁田(出力35kW)、雨沢(出力34kW)、片瀬(出力10kW)の各水力発電所はいずれも小出力であるため福島変電所から配電することになり、これらの発電所はまもなく閉鎖された。また一般需要分の電力の他に、青倉一帯の石灰岩から石灰を生産する白石工業の工場用電力の要求から、長野電灯より受電するようになった。しかし配電統制令により、好調だった電気事業は1942年(昭和17年)11月25日に関東配電に統合されることになり、重要な財源を失った。
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